
「チワワ計15匹を保護、業者捨てる」、「反貧困2千人が集会 派遣労働者やフリーターら」、「宝くじ2億円当選女性殺害」などなど、気が重くなるニュースが目に飛び込んできます。
これらのニュースを見るたびに私は、「捨」という文字が頭に浮かんでしまい、たちまち不安に陥ってしまいます。なぜなら、かつて切り捨てられた経験が私にもあるからです。
しかし、なぜ捨てるのでしょうか、切り捨てられなければならないのでしょうか?
チワワ放棄では、販売業者が、チワワの売買時期が過ぎたため処分に困って捨てた可能性が高いとのこと。つまり、金儲け目的で無謀な繁殖をさせた上に、お金にならなくなったら捨ててしまうというのです。
派遣労働者の方々は、生産性がない人は即切り捨てられてしまい、ひいては、生きることをも否定されてしまう価値観、空気に曝されているといわれています。
宝くじ事件は、邪魔になった被害者を殺人という手段で切り捨てたのではないでしょうか。
これら「捨」の背景を見てみると、そこにはどれも「お金」という存在が蠢いているように思うのです。そして、さらにその奥底を覗いてみると、そこにはお金に縛られてしまっている私たちの縮図が見えるのではないでしょうか。
曇鸞大師のお言葉に「蚕繭の自縛するがごとし」(『往生論註』)があります。
ちょうど蚕が自らの繭で自らの体を縛るように、自分でよかれと思ってした行為が、自分自身をがんじがらめにしていることがこの譬えで表されています。
お金そのものに煩悩があるわけではありません。私の思いのフィルターにかかった時に、それは煩悩(貪・瞋・痴)へと変質すると聞きました。「お金さえあれば幸せになれるのに」と考える私が見つけられます。
お金からの解放という課題を持ち、聞法し続けたいです。
2009年1月
教化センター第4期研究生 佐藤広満
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「大嘘つきだ!」(おおそらごと)
どきっとする言葉です。このような言葉を語った親鸞聖人の目には何が映っていたのでしょうか?この言葉から、なにかを学ぼうとする私たちの危うさを感じることができます。
私たちはこれまでさまざまなことを学んできました。学校だけでなく、親・兄弟などの家族から、または仕事からも学びえたことはあったでしょうし、テレビや本から知識を得ることもあります。つまり体験してきた習慣や教養など、すべてが学びであったと言えます。そして、これらの体験が、人生の節目における重要な判断だけではなく、日常のささいな行動の基礎となっています。「こういう場合にはこうしなければならない」「こうすることが良いのは当然だ」と。また、さらに学ぶことによって、自分はいろんなことを見通せることができ、間違いをせずに生きていけるだろうという期待を持ちます。仏教を学ぶについても、教えによって人生に美しさと正しさが得られるのではないかと予見するような学び方になっている場合が多々あります。
しかし、そのような学び方で一体何がわかるのか、と親鸞聖人は仰っておられるのです。「善悪」を知るということは、単に善し・悪しという尺度のみならず、ものごとがわかる、という意味も含みます。しかし私たちの本質は、「むなしく、いつわり、かざり、へつらうこころのみ、つねにして、まことなるこころなき」姿であるという根本的な問題があると示してくださっています。習慣や教養などの体験、または権威によって美しく繕い直して、ものごとがわかったような生き方は虚飾にすぎないことを、親鸞聖人は自分自身への痛みとして語っておられるのです。
2008年12月
竹原了珠
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何気なく新聞を読み、何気なくニュースを見ていると、必ず家庭・家族を中心とした事件を耳にします。本来、一番身近であるはずの親子、兄弟、姉妹の中で、様々な事件が起こっているのです。互いが理解し、分かり合えていると思っている関係の中で悲惨な出来事が起こるのです。そのような家庭の中の悲劇を題材とした経典が『観無量寿経』であります。家族問題とは現代だからこそ起こるのでなく、経典の題材になるほど人間にとって誰にも起こりうる問題であり、時代や環境で誤魔化すことができる問題ではありません。
そんな家族の問題が描かれる『観経』を注釈する中で善導大師は、親子の関係を「父母は世間の福田の極なり」とおっしゃっています。福田とは、福や徳を生み出す田畑を意味します。つまり、幸福の因となるものが父母の存在であるということです。しかし『観経』には息子である阿闍世が両親に憎しみを持ち、父を殺し、母を幽閉すると説かれています。それは、世間の福田と言われる父母とは、正反対とも言える内容が説かれています。
そのような中で、なぜ善導大師は「父母は世間の福田」とおっしゃったのでしょうか。その言葉は私達に何を伝えようとしているのでしょうか。
私は世間の福田と言われるところに深い意味があるように思います。世間とは、娑婆の世の中、つまり、私が生きている世界を意味します。分別の上にある一喜一憂するような幸福論でなく、いのちを生きるという自覚、生を受けたという事実に立つところの喜びこそが善導大師の言われる世間の福田ではないでしょうか。
仏法とは経典の中にのみあるものでなく、生活の中で体解するものでなければ、私たちとは関係のないものになってしまいます。善導大師の言葉は、見落としがちな大切な問題を、家族という身近な存在だからこそ教えられることがあると示してくれているように思います。
2008年11月
市野智行
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少し前に東京・秋葉原で無差別殺人事件が起こった。トラックを使って歩行者天国に突っこみ、あわせて十七人の人を殺傷した事件。
報道では事件の原因を追及し、事件が起こった原因を育ってきた家庭環境に求めてみたり、当の本人の責任だとしてみたりと様々な反応があった。かくいう私自身も当初、本人に責任があると考えていた。殺人を犯したならば何があっても本人に責任があると。
ところで、最近飛行機に乗る機会があった。私の前の座席には家族連れの人たちが通路を隔てて座っていた。男の子が一人行儀良く座っており、何の問題もなかった。ただ気になったのはお母さんだ。事情は分からないが、子どもが欲しがるおもちゃを買ってあげたり、お菓子を食べさせたりと子どもに色々と気を遣っていた。後ろから見ていて、お母さんは大変だと思いながらも、別の感想が湧いてきた。子どもを甘やかしすぎなんじゃないかと。これは昨今、よく耳にすることである。甘やかせばいいんじゃなくて、しつけをしないといけないんじゃないかと。
これらのことに対してみなさんはどう感じるだろうか。
私自身は二つの問題に関して、自分なら無差別に殺人を犯すなんてことはしないし、子どもを甘やかすこともしないと思う。自分ならしないということは言い替えると、客観的に物ごとを見ていることになる。これはつまりは善いこと、悪いことを自分で決めているということになる。普段このことは問題にさえならない。私たちはそれまでに生きてきた環境、モラル、マナーなどの中で善か悪かを決めていくのであり、そうでしかあり得ない。
ただ、そこに固執していくことの問題性、そしてそれが本当に正しいと錯覚してしまうことの問題性が問われなければならない。また、善悪とはいつしか正・不正へと変わってしまう。私たちは本当の善悪を知らない。だがそれを知っていると思いこみ、他人を批判し、弾劾していくのである。
二つの問題をきっかけにして、善いか悪いか、そして正しいか正しくないかを論じる自分が問われてくる。だが、そこに見出されてくる自分はやはり善悪を論じる自分なのだが。
2008年10月
小笠原智秀
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耐震偽装や食品偽装問題、偽造パスポートや経歴偽装など、最近世の中で「偽」の言葉が多く見られます。
生活の中でも、仲間外れにされない為に見栄を張って自分を偽ったり、仕事や付き合いの為に本音と建前を使い分け、相手を偽ったりすることがあります。
このように日常的に何かを偽って生活している我々ですが、
漢字では「人の為」と書きます。
「偽(ぎ)」と「人の為」では印象が変わり、「偽」の言葉を見ると悪い印象を持ちますが、実は両方とも私自身の中にある同じものなのです。
なぜなら、普段我々は自分の都合や状況によって物事を考え、まさに「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」存在なのです。
我々は自分に余裕がある時は、人に何かを与えることができます。
しかし、余裕が無くなると今までの行動を平気でひるがえし、自己保身の為に人を傷つけてしまいます。
「人の為」を、いつの間にか「自分の為」に置き換えてしまうのです。我々は、巧妙に「為に」の対象を変化させ、何かの為に他の何かを偽って生きているのです。
生きる為には、他者や自分さえも偽り、さらにはそれに気付くことも無く生活しているのです。
「偽はいけない」と考えた私は、心のどこかで自分の中には「偽は存在していない」と考えていたのかもしれません。
しかし、実は他人を批判し、自分を見ようとしなかった私こそ、自分の為に自分を偽っているのでしょう。
普段見ようとしない自分が、少し見えた気がします。
2008年7月
一柳淳徳
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何気なくいつも歌っているこの歌の歌詞をあらためて見つめ直すと、しっかりとはわからないが、おぼろげながら何か伝わってくるものがある。
おぼろげながら感じたことを歌詞ごとに追ってみたいと思います。
ふかきみ法にあいまつる
法(ダルマ)の中に生きている身であるにも関わらず、それを気にすることなく毎日を過ごしている我が身。
しかし、この歌詞では「み法にあいまつる」と宣言しています。そこが凄い。
この歌の一行目を歌うことによって私がふかきみ法に出会えている。
身の幸なににたとうべき
身の幸をたとえるとすれば…と、考えるのもいいが、ここで凄いのは、身の幸と宣言しているところではないでしょうか。
身の事実がすでに幸せであると教えてくれています。
受け難い身をすでに今頂いていることに幸あれということでしょう。
ひたすら道を聞きひらき
自分自身やらなければならないと思いつつもあまりできていないことが、この部分に宣言されています。
求道者として歩むならば当然の宣言ではありますが、まだまだ求道者になりきれていない私がいよいよ浮き彫りになってきます。
この部分を、「その通りだなぁ〜。」と、ようやく最近うなずくことができる感じではありますが…。
まことのみむねいただかん
「まことのみむね」とは、私は何かがはっきりとはわかりませんが、きっとこの歌詞は信心獲得・信心決定しなさいとの宣言ではないでしょうか。
お寺を継いで直ぐあるおばあちゃんに「信心をもちなさいよ」と、言われたのを思い出します。
日頃、何気なく歌っていたが、今後は歌う度に自分は今、何をしているか問うていきたいと思います。
2008年6月
飯田正範
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講演会や法話の前など「初めに三帰依文を唱和いたします【人身受け難し、いますでに受く】‥」と何度唱えたことでしょう。まるでお決まりの儀式のように行ってきました。しかしこの言葉の意味は、本当のところなかなか説明できません。説明しようとすればするほど言葉は事実と乖離してしまうからです。
存在の困難さを例に挙げて説く説明をときおり耳にします。例えば物質的困難についての説明。「空気も雨もただではない。人間が一生の間に消費する酸素、お金に換算すれば何千万円、雨も水道料金に換算すれば何千万円、請求が来んからただで使っておるけれど、このいのち、あって当たり前ではないのです」と。この計算は間違いではないけれど、架空の勘定書を出されても、私にはしっくり来ないものが残ります。また例えば遇縁的困難についての説明。「あなたには父母という二人の親がおり、両親のそれぞれに二人の親がおり、四人が八人、八人が十六人、十代さかのぼると千二十四人、この中のひとりが欠けてもあなたは生まれては来れんのだよ。だから人身受け難し」と。こんなネズミ算的家系図を力説されても実感が湧きませんし、またこの計算は正しいとは思われません。
最近、同年代の友人が大病を患って手術したり、悪い病気で亡くなったりというできごとがありました。否応なく老病死について考えさせられます。そんな中で【人身受け難し、いますでに受く】という言葉は、実在感ではなく喪失感の上にうなずかれたものである、と思い知るに至りました。受け難い人身を受けて在るのだという実在感ではなく、気づいてみれば人生の下り坂にさしかかりもう後が無いのだという喪失感。受け難き人身を受けたにもかかわらず、もう残りはわずかしか無い、という喪失の実感。それは冷静で論理的な説明ではなく、焦りがこころを蝕んでいく待ったなしの実感です。
そういう意味では、この言葉は、年齢とともに実感が深まるものなのかも知れません。若い頃から何度となく唱えてきたこの言葉、それがやがて、老病死を思い喪失感にさいなまれる今ごろになって、この言葉をズシリと重く実感する。お決まりの儀式には、実は深い意味があったのですね。
ですから一緒に唱えましょう。説明抜きで。老若男女みなともに。
―人身受け難し、いますでに受く―
2008年5月
本田 励
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時代や民族を問わず、人として生を受けたものは、誰もが一人で生まれ、一人で死んでいかなければならない。そして人は、地位や名誉や財産を失う時、あるいは愛するものとの別れなどを通じて、この事実に向かい合い、虚無感や底知れぬ孤独感を味わうのでしょう。そのような時には、世間を飛び交うほとんどの言葉は空しく私の中を通り過ぎ、本当に必要な言葉しか響いてきません。
本当に必要な言葉。それは人の一生涯にとどまらず、時代や世代を超え、さらには生死すら貫くような響きを持っているのだと思います。
たとえば、最近、若者の間で流行っている、文章の頭のローマ字をとって「場の(K:空気)が(Y:読めない)」を意味する、「KY」などのローマ字略語。この言葉は仲間内でしか通用しない隠語として、連帯意識を確かめる意味合いもあるそうです。確かに場の空気を読むことは、社会生活を営む上で、昔から大事にされていることなのですが、Yを「読む」ではなく、「読めない」とするところに、他者を嘲笑しつつ排除することによって、「別の他者との連帯を成り立たせようとする」はたらきが見え隠れしているように感じます。
思えば、このことは私自身の日常の一例に過ぎません。私たちは連帯を望みつつも、虚妄な言葉のなかに埋没して、かえって孤独に陥り、虚しさを感じているのではないでしょうか。
「沈黙」がもたらす連帯というものを最近体験しました。大切な人を失ったとき、涙がぽろぽろこぼれ落ち、ただ沈黙するばかりでした。周囲をみれば、ひとりひとり沈黙という静けさにとりまかれていました。それは家族や親戚の沈黙を通じて言葉で分かり合える以上の不可思議な連帯感でした。
理知、分別をもってしては到底推し量ることができない厳粛な死は、単なる他者とのおしゃべりや会話ではなく、他者を通じた自己との対話の必要性を気付かせてくれます。あのときの沈黙が、自分がこれから何をなすべきかと迷った時、絶えず呼び返し、「本当に必要とする言葉を求めあぐね続けていけ」と叫び続けているようです。
2008年4月
松崎 亨
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繁華街でのこと。人ごみを掻き分けて歩こうとすると、3歳になる娘がぎゅっと私の手を握りしめた。足が止まった。娘の顔を見るとかなりおびえた様子。しゃがんで娘と同じ目線で周りを見てみると、人の足がどんどんと迫ってくる。大人の速度にあわせ、遅れまいと必死になって歩いていた娘の目には、まるで猛スピードで車が行き交う交差点の真ん中を歩いているのと同じような感じだったのだろう。悲しいかな、身長170cmの私は身長170cmの目線で常にものをみている。身長が100cmに満たない娘がどう見えているのか、思いがいたらない。
親鸞聖人は「聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」(歎異抄第4章)と教えてくださっている。だからといって無駄であるとは一言も言われていない。逆に「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」と、「かわりめ」があると言われている。「おもうがごとくたすけとぐる」仏の願いが、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」我が身の現実を気づかせてくれるのである。我が身の現実をふまえた上で、仏の願いに生きようとする。そのことが「かわりめ」と表されているのではないだろうか。
おびえ立ち止まる娘の怖さに少しでも思いをよせようと、私は娘の手をそれまで以上に強く握り、娘の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。
2008年3月
長谷川 誠
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小学校の頃、よく先生に叱られました。宿題を忘れた時、「どうして叱られたか、廊下に立って考えなさい。」と言われ、立たされながら考えました。そして「宿題を忘れたのは、悪いことです。だから叱られました。」と言い、席に戻ったことを思い出します。今思えば、提出しなくてはならないものを忘れずに提出するということを、子供の頃から習慣づけてくれるために叱ってくれたのではないかと思います。しかし、当時は宿題を忘れることイコール悪いことなのだと考え、叱られないようにしよう。それだけを考え、叱られるような行いとはどのような行為だったのか、その行為をしてしまう自分ということを、考えることはなかったように思います。
時々、眠れない夜があります。一日を振り返って、一人反省をすると様々なことが頭をよぎります。「叱られるようなことをしてしまった。気をつけよう。」しかし、いつか眠りにつき、朝が来て新しい一日が始まるとその反省はどこかへいってしまいます。そして、また同じ事を反省して、悶々として夜は過ぎていくのです。
「反省だけなら猿にも出来る。」という言葉が流行しました。それは表面だけの反省を皮肉った言葉でしょう。実は、反省しているようでもそれは表面だけで、叱られないためだけの反省に終始しているのではないでしょうか。その行いとはどういった行為であったのか、その行為をしてしまう自分とはどんな自分であったのか、そういう問いを持たないということではないでしょうか。
また、叱られたり、上手くいかなかったと思う時は自分にとって都合の悪い時だけではないでしょうか。「思い通りの一日だった。自分を誉めてやりたい。」そんなことを思いながら眠りにつく夜もあります。自分に都合の良い時は反省そのものをしない自分に気付かされます。しかし、どちらにしてもその行為を省みず、自分を問わないということにおいては同じなのではないでしょうか。そのようなことを確かめさせてもらいました。
2008年2月
玉野 正聡
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医者に行ったら「肺炎です」といわれました。医者には入院も勧められましたが、最近のお医者はお金がかかるので、家で寝てるしかないんです。
八十歳を過ぎた一人暮らしの女性宅での月忌参りで、こんな話を聞きました。
読経中も、寝床から「ゼーゼー、コンコン」と、とても苦しそうな息と咳が聞こえてきます。会話中、顔色が段々悪くなっているように見え、「今日、明日にでも亡くなってしまうのでは」と、いろんなことが頭をよぎりました。
そういえば、医療保険改革で老人の医療費負担が上がったということは何となく知っていましたが、自分には関係ないこととして、あまり重くは考えていませんでした。しかし、こんなにも身近なところで重大な影響が出ていたのかと深く心に突き刺さりました。「ある政治家なんかは、スキャンダルから逃げるために入院したりしているのに!」。何もしてあげることができない自分の無力さに対する腹立ちが、そんな社会の仕組みへの憤りへと向かいました。
一見、豊かに見えるこの国の中で、孤独の中で死を迎える人々がいます。過日の生活保護を打ち切られて餓死した男性の問題は、まだ記憶に新しいことです。そして、毎日のように世界中のどこかで、孤独な死を迎えている人がいるのです。しかし、その一方で、そのことに気づけず、また、知ろうともしない無関心な私もいます。そして、ただ漠然と「便利で豊かな世界に生きている」という妄想の中で、格差を生み出す消費社会を謳歌し、格差を助長している私がいるのです。
「私さえよければ」という思いが弱者を生み出し、「弱者にはなるまい」という私の思いが格差を拡大させる。まさに「そらごと、たわごと」の中にどっぷりつかり、「まことあることなき」自分自身の姿が、この女性から突きつけられました。そして、聖人が語られた「念仏のみぞまことにておわします」という言葉が、よりいっそう私に重く問いかけてきます。
2008年1月
広瀬 貴志