いのちきらきら

いのちの詩

虫けら  大関松三郎

一くわ
どっしんとおろして ひっくりかえした土の中から
もぞもぞと いろんな虫けらがでてくる
土の中にかくれていて
あんきにくらしていた虫けらが
おれの一くわで たちまち大さわぎだ
おまえは くそ虫といわれ
おまえは みみずといわれ
おまえは へっこき虫といわれ
おまえは げじげじといわれ
おまえは ありごといわれ
おまえらは 虫けらといわれ
おれは 人間といわれ
おれは 百姓といわれ
おれは くわをもって 土をたがやさねばならん
おれは おまえたちのうちをこわさねばならん
おれは おまえたちの大将でもないし 敵でもないが
おれは おまえたちを けちらかしたり ころしたりする
おれは こまった
おれは くわをたてて考える

だが虫けらよ
やっぱおれは土をたがやさんばならんでや
おまえらを けちらかしていかんばならんでや
なあ
虫けらや 虫けらや

 『山芋』(百合出版)

 最近、駐車場に生い茂った雑草を取り除こうと、スコップを買ってきて、土から根こそぎ掘り起こしました。当然、これできれいになると喜んだのですが、花を付けながらも根こそぎ取られ横たわる雑草や、掘られた土の中から逃げ惑う虫を見た時、以前に何かの機会に読んだこの詩文が思い起こされました。

 私たちは社会の様々な場面で、迷惑をかけないように生きるということを教わります。そういう心がけは社会的な道徳としては大切なことといえるでしょうが、私たち生きとし生けるものが、迷惑をかけてしか生きていけないということを自覚することは、それ以上に大切で、しかも難しいことといえるでしょう。

 善悪という視点を超えた先に、仏法の深遠な世界が広がっているのです。
                                   

2004年12月

『お釈迦さまのことば』

人が「これは自分の物である」と考える物、
それはその人の死によってなくなってしまう。
私の教えを聞く人は、この理(ことわり)をあきらかに知って、
「自分の物」という観念にとらわれてはならない。

『スッタニパータ』806意訳

 自分の物とは一体なんでしょう?
私たちはいつも何かを欲しています。何かを「自分の物」にするために必死に働いたり勉強したりします。マイホーム、車、宝石、地位や名誉、それが手に入れば私は幸せになれるんだと信じて…
しかし得た物は、いつか必ず失われてしまいます。
幸せになるために手に入れたはずの物でも、それが新たな苦しみを生み出す原因になってしまうこともあります。
どうして「自分の物」のはずなのに思う通りにならないのでしょう?
「自分の物」とは一体何なんでしょう?

私たちはよく「自分のいのち」という表現をしますが、この「いのち」は本当に「自分の物」なのでしょうか?
本当にそうであるならば、
どうして「自分の物」なのに思い通りに生きられないのでしょう?
どうして「自分の物」なのに寿命を決められないのでしょう?
どうして「自分の物」なのに生まれる時代や場所を選べないんでしょう?
よく知っているはずの「自分のいのち」、しかし全く自分の思い通りにならない「いのち」。
果たして「自分の物」といえるでしょうか?

「いのち」は自分のものであるという観念にとらわれず、「いのち」を自分自身の所有から解放したとき、希望や絶望、余命や寿命といった自分の計らいの時間の中でしか生きられなかった人間が、はじめて本当の時間、すなわち「今」を生きることができるのではないでしょうか。
                                        

2004年11月

海とかもめ   金子みすゞ

海は青いとおもってた、
かもめは白いと思ってた。

だのに、今見る、この海も、
かもめのはねも、ねずみ色。

みな知ってるとおもってた、
だけどもそれはうそでした。

空は青いと知ってます、
雪は白いと知ってます。

みんな見てます、知ってます、
けれどもそれもうそかしら。

金子みすゞ童謡集『明るいほうへ』(JULA出版局)より

*詩は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。転載する場合は、「金子みすゞ著作保存会」の許可を得て下さい。
 〒171-0033 東京都豊島区高田3-3-22 JULA(ジュラ)出版局内 TEL 03-3200-7795 FAX 03-3200-7728


 海が青いこと、空が青いこと、雪が白いこと、これらは誰もが当たり前のように周知し、また誰も疑わない事実のように考えられています。

 しかし、よく観察してみると、それほど単純ではないことが見えてきます。そこに、知っている、分かりきっていると思いこみ、本当の事実が見えていない私たちの姿が顕れてきます。
 
 私たちは生きていく中でさまざまな知識を身につけていきます。しかし、知っているという思いこみは、自分自身に壁を作り、新たに知ろうという意欲さえ持たなくなることがあります。さらには、人の話を聞かなくなったり、自分の考えを人に押しつけたりと、思いこみというとらわれは、自他を隔てていく原因ともなっていきます。
 
 思いこみを離れて、そのままに見ること、素直に人の話を聞くことは、大変難しいことかもしれません。自分の考えや立場に固執し、自分を中心とした世界を築いているその「私」の姿があると分かっていても、本当に知ることは容易ではありません。だからこそ、苦悩が生まれてくるのだといえます。
 
 私たちの思いにかかわらず、事実は常に変化しています。変化するその瞬間瞬間に、さまざまな関係の中に成り立っている事実のみがあります。そして、私たち一人ひとりもまたその変化の中にいるのです。

2004年10月

母へ最後の手紙    林 市造

お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。

…中略…

晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けて来ます。
母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることが出来ずに、安心させることもできず死んでゆくのがつらいのです。
                         

『第二集 きけ わだつみのこえ』日本戦没学生の手記
(岩波文庫刊)

 第二次世界大戦が終わって五十九年が経過した。

 いまの多くの若者にとって戦争は、イラク戦争等どこか遠い国で行われる自分とは関係ないこととして、現実感をもっていないのではないだろうか。戦争による人間性の崩壊の悲惨さ、苦しさなどイメージすら出来なくなっているだろう。もちろん、一面ではそれだけ平和であるということで喜ばしいことではあるが、戦争への危険性が現実味を帯びてきた現代において、若者たちが血の涙を流さざるをえない悲劇があることを知ってほしい。

 つねに最前線に駆り出されるのは若者であり、遣わされた者が悲しみの深遠の闇に彷徨うことになってしまう。

 いま世界ではテロとの戦いという名目で、戦争が行われ、多くの一般市民が死んでいる。日本においても改憲や靖国問題等、戦争への危険を孕んでいる。これらは今後若者たちに重くのしかかってくる問題である。

 アイヌの諺で「土地は先祖からの授かり物ではなく、子孫からの借り物」というのがある。目先の需要や利益に踊らされて、我々の代で自由にしていいというのは大きな奢りではないのか。先人から受け取った大事なものを守り育て、今度はしっかりと次の世代に残し、手渡さなければならない義務が、我々には絶対といっていいほどある。

 いま何を考え、行動すべきか。
 自分の眼で見、自分の頭で考えてほしい。

 そして、願わざる死を求められたすべての戦争犠牲者に、心から哀悼の意を表したい。

2004年9月

(せい)のみが我等にあらず。
死もまた我等なり。

『清沢満之の精神主義』より

 現代において、生と死ということを考えると、「生まれる」ことは喜ばしいことと位置づけられ、「死ぬ」ことは悲しいこととして忌み嫌われる。

 「生」と「死」というものにはそこに分け目というものはあるのだろうか。生まれてきたからこそ、死というものがある。「生」と「死」どちらも私たちに与えられたものである。たしかに親しい人との別れは悲しいものがある。しかし、親しい人との別れの中にも仏の教えとの出会いがある。

 私たちは、「死」というものから目を背けずに、親しい人との別れをどう受け止め、故人の一生というものを通して何を学ぶのかということが大切なのではないだろうか。

2004年8月

業の落葉    榎本栄一

私のなかに業がふりつもり
業の落葉がふりつもり
腐植土(ふしょくど)のようになり
ながいとし月には
私の肥料(こやし)になり

『娑婆巡礼』 (真宗大谷派名古屋別院)

 私たちは、生きていく中でさまざまな行為を積み重ねていきます。一つ一つの行為は、大きなものも、些細なものもすべて、私自身を成り立たせているものであるといえます。その意味では、行為することそのものが私となっているともいえるでしょう。

 釈尊は、自業自得という教えを説かれました。自分の行いは自分が引き受けるという意味です。私が関わる行為は、どのようなことであっても、私と関係ないところで起こっているのではありません。善いことばかりではなく、私自身に起こる迷いや苦しみも、私を私として成り立たせている事実であるともいえます。しかし、苦悩に関わる行為については、頭では分かっていても、そう簡単には引き受けることができないという問題もあります。

 仏教という教えは、そうした苦悩する私自身に、苦悩を明らかにし、その苦悩のままに、いのちを生きる道を開いてくださっています。苦悩を引き受けるということは、仕方がないとあきらめることではありません。苦悩であったものが、苦悩のままで苦悩としての意味を失う。そして、そのこと自体がなくなるのではなく、自身の肥料というような形で積み重ねられ、私となっていくのではないでしょうか。

 自業自得という教えは、他人に対して語る言葉ではなく、私の行為を見つめていく中で、自身において証されていくことを示しているといえるでしょう。しかも、生きる歩みの中で、常に私が問われ続ける教えでもあります。

2004年7月

今日の一日を振り返る 
こうすればよかったかな
ああすればどうなったかな
あんなことを言ってしまって
どんなふうに思われたかな
自分の感情がとめどなく溢れてくる

海 法龍(『東京断章』「わがみのわろき事は、おぼえざるものなり」より)

 あるあるあるある!まぎれもなく僕の事です。言いたい事を言ってしまった後、僕は落ち込む。あんな事言わなければ。あの人にどう思われただろうか。気になってしょうがない。もの知り顔で語っている自分の姿がリプレイされる。ああ耐え難い。何でここまで気になるのか。理由はだいたいわかっている。いい奴でいたい。デキル奴だと思われたい。アホだと思われたくないという欲望、そして言いたい事を言わずに言葉を飲み込んだその夜。悔しさがやって来て、飲み込んだはずの言葉を一人きりで言ったりする。気くばりの塊。まさに「評価」の奴隷。自分はどこへやら。

 人は自分の前では何も言わないが陰でこそこそ悪口を言う。ああ腹が立つ。しかし蓮如さんはそうは思わんと言う。「私の前で言いにくかったら陰口を言ってくれ。それを聞いて姿勢を正すから」と。

 人の評価って何なのだろう。真実なのか。自分以外の人を認める事なんて本当に成立するのか。インチキだろう。なぜなら僕自身、自分が絶対者であり絶対審査委員長なんだから。本当の絶対に出会ったんだろうなあ、蓮如さんは。だから他人からの評価から解放され、陰口でも言っといてくれって言い切れるんだと思う。たぶんそうだ。

2004年5月

魔性    田端 明

私の中にある魔性
人間の魔性とは何か
どんなものか問いかけてゆく
いくら問いかけても解らない
解らないから探りたい
探らなければならない
私の腹のどん底
心の底に宿る魔性を
生きている限り
どこまでも問いかけてゆく

『石蕗の花』(「真宗とハンセン病」学習会刊)

 自分自身の心の奥底を本当に見るということは、私たちにとって可能なことでしょうか。またさらに、本当の自分を自分で見たいと考えるでしょうか。

 私たちの心は、常に相対差別というあり方で動いています。そこには、自分をよしとして、他をおとしめていくという心が潜んでいます。それは、どこまでも私を中心に見て、私は正しいという立場でものを考えるあり方といえます。その心こそ、「魔性」ともいうべき苦しみを生み出す根源ではないでしょうか。

 そうではないと自分では思いたい。しかし、現実には、自分を守り、そのために他を排除してしまうことも厭わない、自他分裂の世界をつくり出すことも事実としてあります。それは、いくら自分で消そうと思っても根源的に自心を支えて、活動し続けているものであるといえます。

 そのような心を自分自身が起こしていると認めることは容易なことではありません。しかし、生きている限りその心の活動は止むことはありません。そうであるならば、どこまでもその「魔性」の心を問いつづけるということでしか、自他ともに苦しみから解放される道は見えてこないのです。それこそが、仏教として開かれた道であり、また、先人がたずねてきた道なのです。

2004年4月

私の生き方、そのものが臭(くさ)い。
                    

 最近、「忙しい」が口癖である。その言葉によって自己防衛をしている自分。蚕(かいこ)が自己防衛のために繭(まゆ)をつくる。繭が完成したところで熱湯に入れられ終わり。自己防衛のつもりが自分を呪縛し、自分を生かすつもりが自分を滅ぼしてしまう。(虚偽(こぎ)の相)

 いつも「明日は・・・」と思いつつ毎日同じ事の繰り返し。「明日こそ本をゆっくり読むぞ。明日こそ学習会に参加するぞ」。結局その場になると時間があるのによそ事か居眠り。毎日が堂々巡りの一日。自分では成長していると勘違い。(輪転(りんでん)の相)

 「今日も一日頑張った」と。自分のもっているありったけの人生経験、聞法歴、人脈で自分自身が頑張ったと自慢する。自慢してそれを浄土にしようとしている。自分のもっているものだけで助かろうとしている自分のはかなさ。(無窮(むぐう)の相)

 自分で自分の臭さは分からない。自慢、慢心はもってないと思っているが実はしっかりもっている。特に家族は逃げ場がないからよけいににおう。家族同士相手のにおいは分かるけど言えない。親の臭い生き方によって、子どもが被害を被っている。

 不浄世界の生き方(人間の問題さえ気づかない生き方)から、清浄世界の生き方(自分のもっている問題が自覚されてきた生き方)へ。

2004年3月

いかりには いからないことで克(か)てる
                    

(『法句経』より)

 新しい年が始まったというのに、新聞には暗く嫌な思いを起させることが相変わらず多いようです。
幼児への虐待、強盗やひったくり、そしてイラクへの派兵・・・。
 「どうしてこんな社会になってしまったのだろう」と多くの人が嘆いています。
でも、嘆いているだけでは決して解決しません。ちょっと考えてみましょう。
 
 「いかり」というのは、怒ることであり腹を立てることで、「破壊のエネルギー」を持っています。怒ったときに顔が赤くなっていることの経験はきっとあるでしょう。怒ったときには、自分を燃やしているのです。自分自身を破壊しているのです。「そんなに怒ってばかりいると早死にするよ」と諭された方も多いのではありませんか。
 いかりの破壊は自分だけで止まりません。周囲の人にも影響します。それも悪影響を与えます。和やかな職場に怒った人がひとり現れたら一瞬にしてピリピリとした職場になったということもよく聞くことです。みんなの心を破壊してしまうのです。それは、職場も、家庭も、地域も、社会も、そして国家でも同じことが言えるのではないでしょうか。
 
 では、どこに解決の糸口があるでしょうか。
仏教には「和顔愛語(わげんあいご)」ということばがあります。「いかり」を受け止めてあげればいいのです。「この人は相当怒っているな・・」と。優しい顔をして愛情に満ちたことばをかけられると、まいってしまいますよね、本当に。

2004年2月

迷妄    浅田正作

山も 川も 草も木も
鳥もけものも 魚もむしも
とおい空の星も
そして 人間も
皆ともに
同じくひとしい いのち
哀れや 人間だけが
たまわったいのちの上に
妄念をつみあげて
いのちを見失い
彷徨いつづけている
                           

法蔵館発行 念仏詩集『骨道を行く』より

 私たちは「平等」ということを考えるとき、どこに立っているでしょうか。平等といいながら、自分の都合によって平等と語ってみたり、いつのまにか限られた条件付きの平等に陥っていたりしてはいないでしょうか。そこに、実は私たちが抱えている苦しみの原因があるのだと仏教は教えてくれています。
 
 仏教において、平等であるということは、「たまわったいのち」であることを示しています。つまり、このいのちは私のものではなかったということです。無量のいのちのつながりに、私となったいのちが生かされているのです。私という確かな固定化されたいのちが生きているわけではないのです。すべてのいのちが縁によって生きているという事実に目覚め、教えとして伝えてくださったのが釈尊です。
 
 しかし、私たちは、いのちは自分のものであり、自由にできるものと考えてはいないでしょうか。本来思いどおりになるはずのないいのちを、自分の都合によって思いどおりにしようとすれば、当然そこには思いどおりにならないという問題が生じてきます。それこそが私たちの苦悩の根本的な原因として、仏教がたずねてきた課題なのです。
 
 現代の人間社会には、いのちの平等という事実さえも自分の都合で解釈し、本来の意味を見失い、自ら苦悩を重ねてきた私たちの姿があります。今、人間本意ではなく、仏の智慧によって照らし出されたいのちの平等の大地に立つことが、仏道の歩みとして願われています。

2004年1月