いのちきらきら


年末特筆     浅田正作

今年も あとわずか
マスコミは
内外の十大ニュースを発表
それも これも
みな我が身の投影なのに
よそごと 人ごとにしか見えぬ
この暗さ 愚かさ
悪重く 障り多き
一年だったと
特筆しておこう

法蔵館発行 念仏詩集『骨道を行く』より

 ある夏の日の夜中、寝苦しさにふと目がさめた。暗闇の部屋の中、蛍の光のように小さな灯かりがポツンポツン。映画を録画中のテレビ、ビデオの電源ライト、ラジカセのタイマーディスプレー、電話機の充電ライト、電器ポットの保温ライト、電波時計の受信したことを知らせる2秒に1回の点滅ライト、おまけに私の動く気配を感じて起きてきた猫の二つの目。まだまだ私の周りは動き続けている。
 やがて外では救急車のサイレン。その音におびえる犬の遠吠え。風に乗って聞こえてくる暴走族の走り回る爆音。それを追いかけるパトカーのけたたましいサイレンとタイヤのきしむ音。このままずっと、今日もきのうと同じ様に騒々しく慌ただしい一日となっていくのだろう。
 朝のテレビが刻々と時を知らせている。「ゆっくり食事などしている場合ではないぞ」と言われているかのように、せき立てられながら家を出て行く毎日。落ち着きのない不安な時代。「忙しい、忙しい」とだけで過ぎていった時間、本当に大切な忙しさだったのだろうか。
 年末になると決まってどのテレビ局も「テレビカメラは見た、決定的瞬間」「スクープ、事件事故」などという特集番組が放映される。一年間で起きた事件や事故の映像がこれでもか、というほど流される。私はそんなのを「すごいな」と野次馬の目で驚きながら見ている。・・・・だが待てよ、今映されているあの酔っ払って駅の階段から転げ落ち、額から血を流してうずくまっているのは、ひょっとして私だったかもしれない。あの洪水の川を流され、ヘリコプターで救助されているのは私だったかもしれない。ペシャンコになった車の中からやっと外に出され、顔から毛布を被されて死んでいったのは私だったかもしれない。
 今、こうして人ごとのように痛ましいスクープ映像を見ている。次は自分の番かもしれないのに・・・。今はただ迷路に迷いこまずにいるだけ、四方八方危険だらけの中を運よくすり抜けすり抜け何事もなかったかのように生かさせてもらっているわが身、「ありがたいなあ」と、いのちあることのうれしさを思う。

2003年12月

ふしぎ   金子みすゞ

わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。

わたしはふしぎでたまらない、
青いくわの葉たべている、
かいこが白くなることが。

わたしはふしぎでたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。

わたしはふしぎでたまらない、
たれにきいてもわらってて、
あたりまえだ、ということが。

金子みすゞ童謡集『わたしと小鳥とすずと』(JULA出版局)より

*詩は、金子みすゞ著作保存会の了承を得て掲載しています。転載する場合は、「金子みすゞ著作保存会」の許可を得て下さい。
 〒171-0033 東京都豊島区高田3-3-22 JULA(ジュラ)出版局内 TEL 03-3200-7795 FAX 03-3200-7728


 私たちが毎日の暮らしの中で目にする出来事は、環境や人、自然の現象にかかわることなどたくさんあります。それらは本来常に変化していますが、同じような出来事に繰り返し触れ続けることで、いつの間にか当たり前のことのように思えてくるのではないでしょうか。

 その「当たり前」という思いは、さらに自分にとって都合が悪くなった時、思い通りにならないという怒りや愚痴となって現れてくるようになります。どれだけ自分の思いをぶつけてみても、周りの人や自然の現象が思い通りになるはずはありません。それはいくら努力しても、苦しみや悩みを重ねるだけにしかならないものなのです。

 「ふしぎ」とは、私たちの思いを超えた事実があることを意味します。何かわけのわからない理解できないことを「ふしぎ」というのではありません。雨が降ることも、生き物が変化していくことも、花が咲くことも、さまざまな関わりあいの中で起こる出来事です。そこには、私たちが数えても数えつくせないほどの無数の関わりが存在します。それは思いを超えた「ふしぎ」としかいいようがない事実なのです。

 実は、私自身のいのちも、「当たり前」に生きているのではなく、数え切れないほどの多くの関わりの中にいのちをいただいています。自分自身がすでに「ふしぎ」という事実に包まれていることを知ることによって、当たり前という思い込みに気づくことができるのではないでしょうか。

2003年10月

携帯電話を使って
遊ぶのが得意な若者たち

インターネットを使いこなして
コミュニケーションをとるのが
上手な現代人

でも、真に深く人間関係を築くのは苦手

携帯やインターネットは夢をかなえる
「魔法の道具」になるのかな?


インターネットの書き込み欄の「自殺」「出会い系」などについてのメールを読んで、人間と人間のコミュニケーションの問題を感じました。

現代はコミュニケーションが欠落していると言われますが、インターネットの書き込みや、携帯のメールという新たな手段を使って、かつてより広がりが出ています。お互いの名前も知らず、顔と顔を付きあわせた会話の形をとらないことが、かえって真剣に考えたり、悩みあえたりできることも確かにありますが、ひとりよがりな感情のはけ口として、無責任な言葉で対話として成り立たないことも多くあるように思います。

コミュニケーションの希薄化、会話のすれ違い現象は、人間関係の苦しみから導き出される達成感や、悩みによって得られる幸福感といった、自己を見つめ、思惟して深く生きることが難しくなっていることの現れかもしれません。

それが社会に入る前の不安な若い世代だけでなく、一般に大人とされる世代まで、その浸食はすさまじい勢いで蔓延しているように思われます。私たちは確かに傷付くことを恐れて、楽に生きたいと願ったりもします。でも楽に生きるためだけにいのちをいただいているのでしょうか。

いま、インターネットや携帯なしの生活は考えられませんが、便利な生き方をするために開発した魔法の道具に、私はこれ以上振り回されるだけの生き方はごめんです。
ただ単に夢をかなえるための魔法の道具から、夢から目覚めて、本当に深く人間関係を築くための道具として活用していきたいと私は思います。

(村瀬 剛司)

2003年9月

自分の感受性くらい   茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


 年の初め、月の初め、年度の初め、週の初め、・・・何か新しいことを始めようとする時、私の場合、気合いの入れやすい「初め」の日を選択しています。知らない間に習慣化してしまったものですが、何だか自分が成長していけるような期待を抱くものです。

 しかし、その新鮮な気持ちも徐々に色あせ、挫折し、懲りずにまた仕切り直しなどということは、もはや癖のようになってしまいました。何度となく自分をスタートラインに立たせて、今度こそはと力んでみるものの、同じ姿のリプレイです。「継続は力なり」とは、小学校の時から耳にたこができるぐらい聞かされてきた言葉ですが、つくづく実感させられることだけは継続中です。

 ある時、この詩の第4段が新聞で紹介されてあるのを見て、そもそも自分の心が「ひよわな志」なのだと見透かされ、ズバリ言い当てられたように思いました。その後、詩の全体を見て、一句一段、いずれも独立して力強く、「おまえはどうだ?」と問われているようで、しばらく釘付けになって考えさせられました。
 「ぱさぱさに乾いてゆく心」とは、鈍感なる心。「鈍感ほどどうしようもないものはない」と以前聞いたことがありますが、何が水分を奪っていくのでしょうか。我が心に水分を与えてくれる水やりが、我が身が生活の中で出遇う様々な出来事であるとするならば、その水の質によって、いただいたり拒否したり・・・。感受性とは、まさに私の発見、主体性の確保ということなのではないでしょうか。




2003年8月


仏法領の物を、あだにするかや

『蓮如上人御一代記聞書』第310条

 あるとき蓮如上人は、廊下に落ちていた紙切れをご覧になり、「仏様からのいただきものを粗末にするのか」といわれて両手でその紙切れをいただかれたという。

 生活が豊かになり、物があるれている現代。科学技術が発達し、私たちは便利さを手に入れた。しかし、その代わりに私たちは大切なことを見失ってきたのではないか。

 現代は、自分の身体、「いのち」までも自分の都合のいいように「もの」として扱う時代になっている。

 生きるということは、自分勝手にできることではない。多くの人や動植物などの「いのち」に支えられて私は生かされている。つながりの中にあってはじめて私となるのであって、独立した存在として生きているのではない。

 紙があるのはあたりまえではなかった。いのちあるのも当たり前ではなかった。蓮如上人のお言葉が、五百年の時を超えて私たちに語りかけてくる。




2003年7月