いのちきらきら

第5回テーマ 「不安」

 ストレスが充満する現代社会を暮らす私たちにはさまざまな不安がつきまといます。不安はなくすことができるのでしょうか。あるいは不安とうまくつきあう方法はあるのでしょうか。また、なぜ不安になるのでしょうか。不安は社会の問題でしょうか、個人の心の問題でしょうか。執筆スタッフもまたそれぞれに不安を抱える中で、さまざまな切り口から不安について語ります。

目次

お金の不安

 「人はパンのみにて生くるにあらず」これは新約聖書(マタイによる福音書、第4章)に出てくることばである。それはそのとおりだが、あえて言わせていただければ、それに続けて「されどパンなしにて生くることあたわず」としたいところだ。「いや、パンがなくてもごはんがあれば生きられる」というツッコミは無用に願いたい。パンとは、物質生活、それも端的にいえばお金といっていい。

 「清貧」ということばが一時流行った。中野孝次の「清貧の思想」がベストセラーになり、多くの日本人が衝撃を受けた。中野さんが亡くなられてもう4年になる。あれはバブリーな生活に対するアンチテーゼとして意味があった。しかし、いまのベストセラーといえば小林多喜二の「蟹工船」をあげねばなるまい。格差社会、そしてワーキングプアとかプレカリアートといわれる大量の貧困労働者の出現... 日本では、1000万人以上の労働者が年収200万円以下の生活を余儀なくされているそうだ。いったい、だれがワーキングプアに対して「清貧」を説くことができようか。

 しかしここに興味深いデータがある。東京都が行った「都民生活に関する世論調査」(2005年)というもので、これによれば、「今後の収入に不安を感じる」と答えた人は全体の47.6%だが、これを世帯収入別に見ると、世帯年収200万円以下では44.7%、世帯収入2000万円以上では36.8%で、大きな差がないのだ。ちなみに、いちばん率が高かったのが世帯収入300〜400万円の層で、57.4%。
 貧乏のどん底に落ちればこれ以上不安を感じてもしかたがないということなのだろうか。また、どんなに金持ちになってもお金の不安はなくならない、ということなのだろうか。とはいえ、貧困層と富裕層との間には、一口に「不安」といっても質的な違いがあるように思われる。貧困層の場合は食べていけなくなることへの不安だろうし、富裕層の場合は富裕な生活が維持できなくなることへの不安だろう。

 健康病気への不安についても同じことがいえる。健康病気に不安を感じる率は、世帯収入にかかわらず、約6割。しかし富裕層がばくぜんと病気への不安を感じる一方で、貧困層の場合は保険に加入できない、医者にかかれない、働けなくなれば野たれ死にの危機に直結する、という不安である。

 貧困層でも富裕層でもない、中間層に属する私としては、野たれ死にする不安も財産を失う不安も実感はできない。傍観者でしかないのだろう。ぜいたくをいわなければ何とか生活していけるだけの年収を失うことはたぶんないだろう。ありがたいことだとは思う一方で、私は小林多喜二にはなれそうにない。ほんとうに申し訳ないことだが、私は自分の生活を守ることに汲々(きゅうきゅう)とする小市民でしかない。心の中で「起て餓えたる者よ...」とひっそり歌うだけである。

(真)

中学生の私が抱いた不安

中生代に繁栄したアンモナイトはその終末期、巻きが崩れた亜種が発生。中生代末そのほとんどが絶滅した。ニッポニテス・ミラビリスは、北海道で見つかった異常巻きアンモナイトの一種である。あまりの異常さゆえ、最初に報告され時は、個体的変形の疑いも持たれた。しかし、その後に同じ巻き方の個体がいくつも発見され、種であることが確定した。



 中学時代、初めてこのニッポニテス・ミラビリスの写真を見て、私は何とも言いようのない不安を覚えた。見るからに不規則で醜悪な異常巻きの形状。それが、単に中生代に栄えてほぼ絶滅したアンモナイトという種の話ではなく、自分自身に重なり合う不吉な符号を予感したからである。「げッ!グロテスク‥‥、でもこれ、何だか人間みたいだ」と思った。グロテスクな自分自身の存在、グロテスクな人類という種。個体的変形のごとき自分自身の存在、異常発生してやがて滅び行くであろう人類という種。そのイメージが、ニッポニテス・ミラビリスの写真と重なったのである。

 さて、この写真を見た皆さんはどう思われますか? まるで苦しみもだえるがごときグロテスクな異常巻き形状。何の不安もなしに、大昔の生物の話だ、と言い切れますか? 私は、今も不安を禁じ得ません。

(本田)

 まず、平成20年8月末豪雨により被害を受けられた方々に、心からお見舞い申し上げます。

 私たちの住んでいる日本では、「水」というと非常に怖いというイメージがあります。愛知県内でも記録的豪雨が起こり、死者3名、床上浸水2100棟以上、床下浸水9200棟以上という甚大な被害が発生しました。ここ尾張地方でも昔から木曽川・長良川・揖斐川という3つの大きな河川により、たびたび大きな洪水に見舞われてきました。また、山間部では、がけ崩れや地すべり、土石流ということが起こってきました。ひとたび大雨が降ると不安というものが付きまとってきました。「水」というものに人々は、戦々恐々としてきた歴史がありました。

 ところで、先日、私はカネオヘ東本願寺で「水といのち」について学んできました。カネオヘというところは、観光地としてあまり有名ではないので、知っている人は少ないと思います。ここは、ハワイのオアフ島の北東部、ホノルルからはコオラウ山脈を挟み島の反対側に位置する、人口3万5千の小さな街です。この周辺は「Windward(風上)」と呼ばれ、貿易風が北東から常時吹きつけ、その風がコウラウ山脈にあたり、雨雲を形成し、オアフ島で最も雨が多い地域でもあります。私がこの地を訪れて印象に残っていることは、日本では何か行事の時は雨というと非常に嫌な気分になります。しかし、カネオヘの現地の人々は、行事の時に雨が降ると、「祝福の雨」といって逆に喜ばれます。ところ代われば、考え方も変わるものだと驚いたのが印象に残っています。

 ハワイ先住民族はポリネシア人であるとされていますが、ハワイ先住民にとって「水」というものが生活や命に欠かせないものでありました。ハワイ語で、

Wai ワイ=水
Waiwai ワイワイ=水+水=富、豊かさ
Hawai'i ハワイ=呼吸+水
Waikiki ワイキキ=水+湧く=湧き出す水

 というように、現在のハワイの地名に「水(Wai)」が使われていることからも、水との関わりが深かったことが想像できます。またWaiwaiという言葉から、「水」を多く持つことが豊かなこととされ、水がどっちに流れたかということでケンカや争いが起きたともいわれています。それくらいハワイの人々にとって、「水」は大切であり、命に関わるものでありました。

 昔は水が豊富にあったハワイも現在では都市化や観光産業の水の無駄遣い、農業の変化(さとうきびやパイナップルは水を大量に使用する)によって水不足に不安を抱いているのであります。ハワイ先住民の主食であるタロイモ(綺麗な水でしか育たない)も、ほとんど栽培されなくなっているのです。私たち人間は、便利さ、快適さ、己のエゴを求めて自然を破壊し続けているのではないのでしょうか。ハワイという遠い異国の地で起きていることであるといって、自分とは関係ないものではありません。一つの世界として、同じいのちとしてつながっているものではないのでしょうかと私は思います。

(朋)

ありがとう

 「忙しい」・・・この言葉を聞くと、うらやましがる人もいれば、お気の毒と思う人もいる、そうでない人もいる。それぞれの捉え方があるので、どう思うかは自由である。

 私は、不安になるときがある。自分を見失いかけることがあるからである。時間的には持て余すことがなく、行動ができるので、退屈をしない。しかし、何か虚しい感じを覚えるときがある。

 与えられた仕事を、淡々と実行していくだけで、このままで本当にいいのだろうかと思う。
 「毎日々々 ぼくらは鉄板の・・・」ではないが、同じことの繰り返しで、それでいいのだろうかと思う。

 そんな時、「あっ、これでいいのだ」と思う。それは、「ありがとう」という言葉を聞くときである。この「ありがとう」という言葉によって、自分は必要とされているのだ。この仕事によって、利益を得た、その人にとってプラスになった人がいるのだと思うと、やっていてよかった。「よし、がんばろう」と思う。そして、改めて思う、この仕事を続けようと。

 私は誓う、「ありがとう」という感謝の心を忘れずに生きていこうと。

(山内)

人間する

飼い猫が右前足に裂傷の怪我をしたので、動物病院に通院することになった。傷口に薬を塗って包帯で巻いて貰って帰宅するのだが、帰宅すると直ぐ包帯をとってしまい、普段と変わらぬ行動をとるので傷口を再び悪化させてしまう。通院を2,3回続けていたら、入院になってしまった。そんな猫を見ていてふと思ってしまう。「猫は怪我をしても何も感じないのだろうか」と。我々人間が怪我をしたら「いつ治るのだろうか」とか、「暫く大変だなぁ」などと心配したり不安になったり色々なことを考えてしまう。

 日本の経済も世界の経済も重病のようである。首相の言によれば、日本の経済は全治3年だそうである。建て直すための処方箋をあれこれ書いているようであるが、そうとう手こずっている。経済が不安定なためか、世相も乱れ、安心して暮らすことが出来ない昨今のように感じる。経済的な不安、将来の不安、自然災害の不安等々あるが、そのような不安が全て無くなったら本当に安心して暮らせるのだろうか?
 
 そもそも、人間は万物の霊長といわれるが、心配や不安等を完全に無くすことなど可能なのだろうか?怪我をしても普段と変わりなく生活をする猫を見て、そんな人間が愚かに思えてくる。

 禅を欧米に紹介したことで知られる鈴木大拙氏はそんな人間を見越してか、次のような言葉を残して下さっている。

人間する
人間は悩んだり悲しんだり安心したり不安になったりするが常態だから そのまま受容して即前進あるのみ


漠然とした不安を抱えて生きる私にとっては心強い言葉である。(最後に持っていってはどうか?)

(長澤)

わたし、きれい?

昔、「わたし、きれい?」と言って、マスクを取ると、口が耳まで裂けていた、という口裂け女がはやった。子ども心に、暗い夜道を歩くとドキドキしたのを思い出す・・・。

 9月に東海地震が起きるという話を聞いた。テレビ等であまり大騒ぎしなかったのでホッとしていたが、小学生の間では話が広まり大変なことになっていた。我が家でも、深夜3時に地震が来るということで、まくら元にはヘルメット、くつ等が並んでいた。ホームセンターで防災グッズもたくさん売れたそうだ。

 現代は「不安」をあおることで、多くの方が同調してしまう。非常に危うい世の中だ。  親鸞聖人は「疑い」を大切にされた方だそうだ。

 そういう私も、あの時と同じようにドキドキしながら布団に入った。ため息をつきながら。

(竜沢)