
目次
執筆者がそれぞれに思い悩んで書いてきた今回のテーマ、「おもい」。いかがでしょうか?このテーマで文章を書くのも残すところ10月、11月の2回だけ。
第4回テーマは「常識」に決まりました。12月からのスタート予定です。どんな話が飛び出しますか。その前に、後2回「おもい」について語られる文章、楽しみにしていてください。
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今回のテーマトークは『おもい』である。『おもい』から連想される漢字は『重い』『思い』『想い』や、少しひねったところで『懐う』『念う』『顧う』『意う』等であろう。因みに常用漢字で『おもう』の訓があるのは、思の一字だけである。ともあれ、原稿を書く時は気が重い。
今回のテーマにはどんな『おもい』が込められているのであろうか。白川静博士の『常用字解』という字典によると、『思』には「おもう、かんがえる」の意味。『想』には遠く想いを馳せる、思いやるの意味。『懐』は心のうちにおもうこと。『念』は心中に深くかくす、心中に深く思うこと。『顧』はめぐむ、おもう、心にかけるの意味。『意』はおもう、考えてその意志を定める。このような違いがあるそうだ。テーマトークはひらがなの『おもい』であるから、思いつく『おもい』について思いを巡らしてみる。
「いのち きらきら」というホームページは、どのような『おもい』で開設されたのであろうか。どのような漢字が適切であろうか。おもいより重い「願い」であろうか。同じく白川博士によれば、『願』は深く思うことから「ねがう」の意味になったそうである。 「いのち きらきら」というキャッチコピーが決まった背景は知らないが、個人的には好きなキャッチコピーである。なぜ好きかといえば、雑な言い方ではあるが、せっかく生きているのであれば、きらきら輝くような人生を送りたいと想わせるからである。だが現実は、どうでもよいことに思い煩い心配したり、あるいは喜んだりして、「こんな人生でよいのだろうか」と思い悩む日々を送っている。「きらきら」とは正反対の方向を向いた人生である。また、我々は独善的に生きているわけではなく、目に見える見えないを問わず、様々な人や物に支えられている。生きていくには食べなければならないが、その食べ物ひとつにしても、自分の手で育てた物は無い。対価としてお金でまかなっているにすぎない。このような事実に想いを馳せると、自分が生きているこの「いのち」って何だろうと思わざるを得ない。しかも、「いのち」は『命』でも『生命』でもなく、平仮名で『いのち』と表記されると、『い』『の』『ち』とそれぞれの字が身に迫ってくるように感じ、否応なく「いのち」の意味について向き合うことになると思う。
私は、上記のように思うのであるが、開設者の思いはどのような字が適切な『おもい』であろうか。それとも、おもいより深い『願』であろうか。
北陸やソロモン島での地震で、被災者の方々の哀しみは計り知れない。被災者の方々が、1日も早く安穏に「いのち きらきら」と過ごせるようになるよう、『想い』が届くことを願う。
(長沢)
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今回のテーマ「おもい」。私が最初に連想された字は「思い」であった。この「思い」について色々と考えてみた。今まで生活をしてきた中で、様々な人と関係を結んできた。今でも日々結び続けている。親子、友人、先輩、後輩、同僚・・・。そこには人の「思い」が交錯する。良きにつけ悪しきにつけ。この中の親子について書いてみようと思う。
私は、日常生活に対するしつけの中で、親に非常に感謝をしている事がある。それは、食事についてである。特に、箸の持ち方は嫌になる程、しつけられた。それが今、非常に有り難いと思っている。色々な場面で様々な人と食事をする機会があるが、色々な持ち方をする人がいる。こんな人でもとビックリすることもある。食事を見ればその人が分かるという言葉を聞いた事もあるが、正直一緒に食事をしたくない人もいる。
今は感謝をしているが、当時は食事の時間が苦痛の時があった。気が「重く」なるのである。また何かを言われるのではないかと思い、食事中、ビクビクしていた時期があったように思い出される。食事も美味しくなかったように思う。ただ、親の顔色を伺いながら食事をしていただけのような気がする。
親にとってみたら、子供に世間のマナーを教えるのは当たり前ではあるが、そこには、世間で恥ずかしくない人間になってほしいという「思い」がある。それに答えようとして「重く」なった。しかし、そこには「思い」を越えた「願い」があったのではないかと今にして思う。
私達は様々な「思い」の中で生きているが、それを越えた「願い」がある、人間関係を築いていけると良いと思う今日この頃である。
(山内)
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子供のころ、誰もが夢を持ち、空想世界の中で遊んでいた。男の子はヒーロー特撮ものの主人公になったつもり、女の子は?だ(女の子の気持ちは正直いってよく分からない)が、いずれにしても、現実世界と空想世界を自由に行ったり来たりしていたものだ。
しかし、成長するにつれて、現実世界のほうがだんだんに比重を増してくる。世の中、そんなにかっこいいヒーローやヒロインが存在するわけではないことを知るようになる。その代わり、アイドルに熱をあげるようになる。ブラウン管(今では液晶ディスプレイか)の中の世界は、幼い頃の空想世界を補完する役割を果たす。物語・小説・ドラマ・映画なども同様である。人によって、また年代によって、どのような空想世界に遊ぶのかはさまざまであろうが、大人になり社会で働くようになっても、空想世界が消えてしまうわけではない。それは人として健全なすがたであろう。ただ、空想世界を消さないで維持していくためには、想像力を常に磨いていなくてはならない。
想像力の大切さについて、漫画家の手塚治虫は次のように述べている。
無駄や遠回り、道草を許さない社会は、どう考えても先に豊かさは見えません。合理主義や生産至上主義は、結局はその社会を疲弊させてしまうでしょう。なぜなら、みずみずしい感性や、独創性をもった子供たちが、育ってくるはずがないからです。(中略)想像力は大きな夢につながるものですが、ごく日常の現実、隣に住む人の悩みにだって、届かせることはできる。それは他人の悩みを穿鑿(せんさく)するという意味ではありません。自分以外の人の痛みを感じ取るには想像力が必要なのです。(『ガラスの地球を救え』より)
ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』は、文字が現実世界の部分はあかがね色、空想世界の部分は緑色に刷り分けられ、主人公のバスチアンを巧みに二つの世界に行き来させている。そして両者が円環の関係をなすことにおいて、「はてしない」(unendlich)のである。エンデのこの作品の主題は、空想世界の消失の危機を通じてファンタジーの復権を訴えることにある。もちろんその意図するところは、現実からの逃避手段としての空想世界と言うことではなく、仮想現実でもない。バスチアンは空想世界をくぐりぬけることによってたくましく成長するのだし、彼のように二つの世界を行き来する人間が「両方の世界を健やかにする」のである。
最近は、モダンファンタジーが流行しているようだ。『指輪物語』『ナルニア国物語』『ゲド戦記』『ハリー・ポッター』などなど。これらが映画化されて大人にも鑑賞され出したことで、かつての「ファンタジー=子どもの読み物」という先入観が崩れたことは喜ばしい。ただし、映画になると原作のモチーフが崩れてしまうことがあるので要注意だ。『はてしない物語』も映画『ネバーエンディングストーリー』になって、まったく趣の異なるものになり、原作者は激怒して告訴にまでなったという事情がある。是非とも原作を読んでいただきたい。
(真)
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おもい・オモイ・OMOI。今回のトークテーマは「おもい」。思いつくまま徒然なるままに、「おもい」にこだわって綴っていきたい。
《スピーチ》・・・「人生には3つの坂がございます。上り坂と下り坂、そしてお二人の愛の真価が問われる時がまさかの坂でございます。」は結婚式の定番。まさかとは、思いもよらぬことが起きた時に使用される言葉だが、まずは我々の人生そのものが、そのまさかの誕生からはじまっていることを思い出そう。《かたおもい》・・・あの人のことを想い心痛めた若い頃。今となっては腰いたい、肩重い。自分の体を痛めないことに精一杯。残念。《ランドセル》・・・今日も子供達はランドセルを背負って小学校へ。1年2年3年と年々その中身は重くなっていく。重いけど降ろせる目的の場所までヨッコラショイ。《液晶テレビ》・・・我が家にも待望の薄型テレビ。軽いこと薄いこと小さいことが良いことだが今の世の風潮。でも薄型テレビ、持ち上げてみたら思いのほか重い。見た目はあてにならず。《どんだけ〜》・・・一部芸能人に「どんだけ〜」が流行。この言葉に、思いの及ばぬ不可思議さと量りしれない無限の奥行きを感じるのは私だけ?《ZARD》・・・ZARDのボーカル女性がなくなった。自分と同世代。ゆれる想い。《天空の城》・・・「父さんが残したあつーいおもい」と兄がラピュタの歌をうたうと、小1の弟が「そうだよ、寝とる時に僕の上に父さんの足があったりするもん、熱いし重い」だと。ちなみにこの歌のタイトルは『君をのせて』だそうだ。いかん、子らにちゃんと父の熱い思いを語らねば。《ファットマン》・・・長崎旅行で原爆の悲惨さをあらためて知った。広島にはリトルボーイ(少年)、長崎にはファットマン(太くて重い男)が投下された。名前や被害の大小に関係なく無条件で原爆はだめだという思いは強まった。《重症》・・・父親と子供が同じように足を骨折した。歩いてきた期間が長い分、歩けることがあたり前という思いが強い分、ついこの前までハイハイしていた子供より大人の方が気持ち的に重い症状。《阪神大震災》・・・崩れつつある家から奇跡的に外へ。家族でただひとり生き残った少女。直前まで手をつないでいた母親の『この子には生きてほしい』のおもい。《不思議》・・・「今僕の見ているものがみんなにも同じように見えてるとはかぎらんよね。絵で描いてもらっても、その絵を見るのぼくだもん、わからんよね」と、突然の思いつきを言い出した小1の息子。不思議発言。なぜだ?《不思議不思議》・・・考えてみれば世の中は思いの及ばぬ不思議なことだらけ。結局は想定の範囲外が想定の範囲内。これが人間の思いの限界。不思議・不思議。
散々な文章だとみなさんに叱られそうで気は重い。でも私の今の心(念い)を綴れたし、まあいいか。などとおもいつつ・・・・・・・了。
(大矢)
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人には不思議な力が元来備わっていると聞く。夢を追い続ければ、いつかは夢を現実のものにすることが出来ると。
この場合の夢って、欲望のことじゃないよね。願望だよね。こうなりたいという願い。こう生きたいという願い。思い続ければ、いつかは達成できるって話、よくサクセスストーリーとして聞きますよね?
私は、こうなりたいという思いを抱かずに生きてきたから、今、ココでこうやって文章を書いてるけど、それって失敗だったんだろうか? 自分では、ちゃんと地に足を付けて歩いてきたつもりです。どうしても、「夢を追い続ければ〜」という言い方、夢を追い続けなければ落伍者だという烙印を押してるような気がして寂しく感じたりもします。
こうやって考える色々なこと、人に上手く伝えれたら良いけど、思うように文章に出来なくて。自分の番が回ってくると、読んでる人に申し訳ないなって思いながらもまた書いてます。
思う・・・さてさて、いろんな「思う」が在るものだと、この短い文章を書きながら感心してしまいます。まずは、「思い続ければ〜」。これは、「自分の目標をいつも心に留めていれば」という意味。思い=目標ですね。「こうなりたいという思いを抱かずに」も同じ意味ですね。
「思うように文章に〜」って、自分の考えてること=思いって使ってますよね。
「申し訳ないって思いながらも〜」って、本来表に出して表現すべきことを行動に出していない言い訳ですよね。
「おもい」ってテーマ、凄く重いですね。私の拙い知識で「思」を使う文章を書いただけでこれだけの用法が。ましてや、「想」・「念」・「懐」・「惟」・「意」・「憶」など「おもう」と読める漢字を並べてみたら気が遠くなりそうです。ただ、並べてみた漢字全てに「心(りっしんべんを含む)」が付いているのがやはり人のおもいは心で感じるものなのだなと妙な感心をしてしまいました。
漢字が出したついでなので、雑学的に簡単な意味でも。
思 「田」とはイネを作る田ではなく、頭をあらわすそうです。頭と「心」で考える事を表す字。想 遠くにある木を見つめる意味を表す「相」に「心」を付けて、ある対象に向かって心で考えることを表現する字。念 今と心。「今」とは、元々はふたで囲んで押さえ込む事を表した漢字―押さえ込まれたものが時間でこの瞬間を表す「今」という意味になるそうなのだが―に「心」を付けて、心に深く含んで考えることを表す字。懐 涙を衣で包んで隠すさまをあらわしたつくり(右半分)に「心」。心に仕舞って大切に暖める気持ちを表現する字。惟 「隹」は音符であり意味はなし。ある点に絞って「心」を注ぐことを表す字。唯とか維は兄弟字。意 「音」は口に物を含んだ様子を表す字。それに「心」を付けて、心に考えをめぐらし、表に出さないことを表現した字。憶 「意」にさらに「心」を加えて・・・誰にも漏らさず、心の中で胸に詰まるほどさまざまに考えをめぐらすことを表す字。
これほどの漢字があるということは、それだけ人の心を言葉で表現すると言うことは難しいということ。ましてや、他人の心を読み取るのはもっと難しいこと。それでも、言葉でやり取りしない限りは伝わらない「心」。せめて、会話なりボディランゲージなどを駆使して、自分の思いを伝えれるようになればと考えながら、この取り止めも無い文章を書いてみました。
(広)
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私の幼い頃の思い出で、何ともおどろおどろしい記憶がある。
私が住んでいた村落の村外れの田んぼの畦(あぜ)道に、漬け物石ほどの大きさの置き石がありすぐ脇に「この石を動かす者にタタリあり」という立て札が立っていた。いたずら好きの5・6年生の上級生の子がその石をひっくり返してみると、その石の下にはたくさんの蛙の死骸が積み重なっていた、というものである。
恐ろしくセンセーショナルな光景であるにも関わらず、どこの田んぼだったか、どの畦道だったか、と考えるとおぼろげで実像が思い浮かばない。置き石も立て札も蛙の死骸も、憶えているようで、実のところ確かな記憶がない。なぜなんだろう。
よくよく考えてみるとこの話はおかしい。だいたい蛙というものは人畜無害むしろ有益な生き物であって駆除する理由がない。仮に農作業の途中で多くの蛙が死ぬような事態が発生したとしよう。まず思いつくのは川に流すこと。それが難しければ穴を掘って埋めること。死骸を集めて上に大きな石を置き、しかもご丁寧に立て札を立てることなど、普通は思いつきもしないし、それを実際の行うことなどあり得ない、のではないか。
成人して後、この記憶を回想しつつ、ひとつの仮説を思いつくに至った。あれは、いたずら好きの上級生の子が創作した怪談話だったのではなかろうか、と。ある上級生の子が思いついたおどろおどろしい怪談話、それをまことしやかに下級生に説いて聞かせた。聞いた下級生は真に受けて恐怖を抱き、さらに年下の子に説き聞かせた。そしてその最後に私が聞いた、ということではなかったか、と。
都市伝説という部類の話がある。何人かの人が聞きづてに話し伝えるうちに、その伝説がいつしか実話としてひとり歩きを始める都市伝説。まあ、村外れの田んぼの畦道の話が都市伝説とはこれいかに、といったところであるが…。
さて今になって意味深く思うことは、この話がなぜ発生しなぜ子供たちに広まったか、という理由についてである。それは、私たち昔の子供なら誰でもが知っている、殺生に伴う何とも言い難き自責の念がその根底にあるのではなかろうか。
「一寸の虫にも五分の魂」ということわざがある。どんなに小さないのちでも、生を喜び死を厭う明らかなる思いがある。蛙だって生きていたい。理不尽に殺されてはたまらない。蛙やドジョウを殺してしまった時にふと思う。殺す側と殺される側の立場が反対だったらどうだろうか、と。とたんにゾッとするような自責の念に打ちひしがれる。私たち昔の子供なら誰でもが知っている自責の念とは、殺される側の思いの重さに対するものではなかろうか。
時代は変わり、風景も変わった。同じ場所に住んでいる私のライフスタイルも約40年の間に大きく変わった。田んぼもほとんどなくなり、蛙やドジョウも昔ほどにはいないだろう。しかし、生きとし生けるもののいのちの感覚は変わるものではない。「一寸の虫にも五分の魂」のことわざに教えられる通り、どんな小さないのちにも思いがあり、その思いは、思いのほか重い。こういういのちの感覚、いのちの事実を、忘れることなく、大切にしたい。
(本田)
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「いつまでゲームしてるの!」
「早く宿題やりなさい!」
「さっさと自分でやりなさい!」
キッチンから妻の怒号が家中に鳴り響く・・・
ガチャ〜ン!!!
ドンドコドン!!!
バタバタバタ・・・
カッ! カッ! カッ! カッカ!
「お父さん!!! 早くこどもをお風呂に入れて寝かせてよ!」
「ウチにはこどもが3人もおるで大変だわ!」
「疲れた疲れたって、本当に疲れとるのは私のほうだわ!」
・・・(おれは、おまえのお父さんじゃねッ〜ノ! こどもが3人で悪かったなッ! 今日は、本当に忙しかったんだわ!)と。
いつもは声に出して言うが、今日は蚊のなく声より小さな声で言ってみた。
「はあ↑?なんだって?なんかいった?」
「いえ、何も・・・」と言いながらつばを飲み込む。
自分の想いが伝わらない時の妻は、恐ろしく地獄耳である。
「子どもは恐怖の中で育つと オドオドした小心者になる」(ドロシー・L・ノルテ)
「夫は妻の恐怖の中で育つと、オドオドした他人になる」(筆者)
私の想いは、オドオドした恐妻家になることではなく、安心して3人目の子どもになることである。
(平松)
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