
今回からトークのテーマが『かかわる』に変わりました。New! やわらか頭、いし頭、おもしろ頭、まじめ頭etcの執筆人たち。それぞれの『かかわる』に対する思いをこのページに書き綴っていくこととなります。
『かかわる』と言えば、親子のかかわり・男女のかかわり・ご近所とのかかわり・社会とのかかわり・隣国とのかかわり等々、あげていけばきりがありません。はてさてこのテーマにてこのページ、何が飛び出してきますことやら・・・こうご期待。どうぞみなさん「かかわりたくない」などとはおっしゃらず、『かかわる』についてのトークにしばらくのお時間かかわってくださいませ。
目次
今回まで七回にわたりお送りしてきた、第二回テーマ「かかわる」は今回でおしまいになります。これを読んでくださった皆様も、何かに「かかわる」事を新しい視線で見出すことが出来たでしょうか?
次回(2007年5月からを予定)より、第三回テーマ「おもい」として続けていきたいと思います。これからもよろしくお願いします。
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「あっしには かかわりあいのねえことでござんす。」は、木枯らし紋次郎の決めゼリフ。こんな言葉を放ちつつも、紋次郎は事件に十分かかわっていた。「死してしかばね拾うものなし」は隠密同心。結局彼らも仲間を最後まで見捨てなかった。「てえへんだあ・てえへんだあ」の事件の始まりを告げる言葉のむこう側には必ず「どうした・どうした」とかかわりを持ちたげなたくさんの顔があった。
もちろん時代劇はあくまでも作り物の劇。「このドラマはフィクションであり・・・」に決まっている。『ちょっとかかわりすぎてるんじゃないの』は当然の感想であろう。しかしながらこういった時代劇に、私はなぜだか懐かしさや憧れを感じてしまうのである。
最近、うちの学区の小学生達は登下校時に名札をしていない。ラジオ体操の出席カードといっしょに防犯ベルをぶら下げているこどもも見た。「私にはかかわるな!」である。こうなってくると、たとえ道端で泣いている子がいたとしても声をかけてかかわりを持つことについついためらいを感じてしまう。これらはこどもとのかかわりに限ったことでもない。『かかわる』が、『かか悪』と表記されてしまうようなことにだけはなってもらいたくないものだ。
かかわるべきか?・かかわらざるべきか?これを一瞬で判断するのは非常に難しい。「かかわれ」「かかわるな」の声が心の中で入り乱れる。こんな時、心の中をじっくり観察してみると、「かかわれ」「かかわるな」の声は、どうやら心の同じ場所からは発信されてはいないようだ。結果としてかかわらなかった自分が自己嫌悪感を抱くのはこの為であろう。また、かかわった自分に更なる勇気と自信がわいてくるのもこの為であろう。
だからどうするのか?うーん・・・・・・・。これからはもっともっとかかわるべきか?・・・・それともやっぱりかかわらざるべきか?うーん・・・・。このままじゃあきっといけないんだろうなあ!うーん・・・・。 そうだ! 今から水戸黄門でも見るとしよう。
(大矢)
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原稿に拘わって苦闘している。我々の生活は様々な係わりによって成り立っているので、「かかわる」のテーマトークには事欠かないと思っていたが、いざ担当となると困惑してしまう。
最近のメディアの露出頻度から世間の関心を列挙してみると、「亀田親子」「ハンカチ王子」「9・11」「秋篠宮家」「総裁選」「飲酒運転」「ライブドア裁判」「裏金」と言ったところであろうか。上記のどの話題であっても、あらゆるメディアが微に入り細にわたり報道してくれる。むしろ狂信的と言って良いくらいである。おかげで、時の話題以外はほぼ忘れられた状態か、報道されても微々たるものである。我々の世情への「かかわり」はメディア主導である。いや、逆に我々が自分自身には関係ない第三者的な「かかわり」で、おもしろ可笑しい報道を望んでいるのかもしれない。しかし、我々が情報を得るためにはメディアに依らねばならず、そんなメディアに拘わっていられないと言ってすむ簡単な係わりでないことも事実である。
そんな中、我々の第三者的な関わりが、いかに表面的で薄っぺらく、操作されたものかを焙り出す記事を目にした(この情報も操作されているかもしれないが…)。ある機関紙に掲載されていた、バーミヤン大仏破壊の記事である。記事を抄出すれば、アフガニスタンの人々の窮状に目を向けなかった世界が、世界遺産である『大仏破壊』という危機には即座に反応したことが、住民の哀しみを深くし、憤りを増したことは日本に伝わらなかった、ということである。恥ずかしながら、初めて知った。情報に関わっているようで関わっていない実例である。
現代は情報化社会、IT社会と言われ、ますます便利になるように吹聴され、そのように錯覚しているが、実際は情報に誘導され操作されているのかもしれない。ありふれた言い方だが、情報を取捨選択しなければならない。情報への関わりに拘わらなければならない悲しい世情である。
(長澤)
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世間では、若者の「無気力、無関心、無感動」ということが騒がれた時期がありました。このトークのテーマが「かかわる」ですので、「無関心」について少々お時間を頂いてお付き合い願いたいと思います。
私も20代ですので、この世間で言われる若者の世代で、自分に言われているのだと思いますが、その反面、俺は大丈夫と思う時もあります。この 俺は大丈夫 が「無関心」さの表れのように思います。世の中の時事問題に関してもそうですが、共通の話題として知っていて当たり前の事を知らない現実があるのです。先日テレビを見ていましたら、現在の内閣総理大臣の名前が言えますか?という街頭インタビューをしていました。分からないと答える若者が圧倒的に多かったのには驚きました。どうして分からないのだろう、こいつらアホだなぁと思って見ていました。
最近になり私の言動でも同じような傾向があるのではないのか?と考えるようになりました。それは、自分に直接関係にないことには関心を示さないということです。そんなこと知らなくったって、生きていける、自分には関係のないことだ等々と言って他人事、よそ事のように自分の耳をロックしてしまい、聞く耳を持たずにいる現実があるのではないかと思うようになりました。政治の事を例に挙げましたが、現在騒がれている事件でも、特に家族間でのトラブルがよく報道されますが、身近な地域で起これば、関心を示すかも知れないが、遠くの地域の事だと関心を示さない、という私であるように思います。
このことが、若者が「無気力、無関心、無感動」と言われる現実かなと思います。この原稿を書きながら、改めて日頃の生活を見つめ直し、人は多くの関わり合いの中で生きていることを念頭に置いて世の中に関わっていきたいと思います。
(山内)
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先日ラジオを車の中で聞いていたら、話題が万引きのことになりました。番組パーソナリティが「ガム一個だって、それを黙って持って行くっていうのは、店の人、ガムを運んできた運送会社の人、ガムを製造した工場の人、ガムの包み紙をデザインした人、原料の輸出にたずさわった人、原料のゴムを採ってきた人、こういう人たちみんなの苦労を台なしにすることなんだよね」という趣旨のコメントをしていました。
彼の話を聞いて、私は思い出しました。『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)に出てくる「人間分子の関係、網目の法則」のことを。この本で、主人公の中学生・コペル君が、「人間は社会を構成する分子のようなものだ」と直感するところから話は始まります。コペル君は、オーストラリアの牛から自分の口に粉ミルク(脱脂粉乳のことと思われる)が入るまでの過程を想像して、多くの人、それもほとんどは顔も名前も知らない人たちが自分に関わっているのだと考えて、これを「人間分子の関係、網目の法則」と名付けるのです。そしてこれを大発見だと思って、叔父さんに報告します。叔父さんは、コペル君の「大発見」に感動しますが、実はそれは既に学者たちが「生産関係」と呼んでいるものに他ならないことを説明します。
そして、コペル君の叔父さんは次のように注意を喚起しています。今の世界は、「人間分子の関係」という表現が言い当てているように、物質の分子と分子の関係のようなものになっていて、本当に人間らしい関係にはなっていないのだ、と。
では、本当に人間らしい関係とはどういうことなのでしょうか。また、どうすれば人間らしい関係をつくっていくことができるのでしょうか。簡単には解答の出せない課題ですね。実際の生活の中では、私たちは人間関係の中で傷ついたり悩んだりします。最近、傷つくのがいや、あるいはめんどうくさいという理由で、あえて友人をもたない・恋人を作らないという人が増えているのだとか。しかし、傷ついたり悩んだりすること自体がきわめて人間らしいありさまだと思うのです。昔、野坂昭如氏がCMで「みんな悩んで大きくなった」と歌っていましたが、それは必要不可欠なプロセスなのでしょう。
人間は言葉の動物(ホモ・ロクエンス)です。語りかける、という行為は人間にもともと備わった能力であって、本能といってもいいかもしれませんが、それが人間らしい関係を築くための基礎になるでしょう。ひっきりなしに携帯メールを打つすがたも、思えばホモ・ロクエンスたるしるしなのかもしれません。ただ、語る内容、あるいは語り方によって、人間関係が破壊されることがあるということは、注意しておくべきです。いずれにしても、語りかけることが人間としての証なのですから、言葉を大切にしていきたい、と私は思います。
(真)
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貴方は今、このテーマトークを書いた私に出会っている。このように、ネットを使用して人と接する機会が増えた。
以前、まだパソコン通信といわれてた時代。私はこの頃から、多くの人と出会った。掲示板やチャットで会話し、気の合う者同士、趣味が同じもの同士、コンピューターの世界を飛び出してリアル(現実の世界)でも会って話をした。この頃から、「オフミーティング(オフミ)」とか「オフ会」と言う言葉が出てきた。コンピューターの世界を飛び出してリアルで会うことを指した言葉だ。
一般にネットで会話をすることは、文字でやり取りをすること。相手の言葉しか読めない。イントネーションも、表情も無い。それでも、趣味が同じもの同士、会話は盛り上がる。掲示板を通じての会話、チャットを通じての会話、さらに仲良くなれば、メッセンジャーを通じての会話。
でも、それだけでは物足りなくなり、声で会話をする。電話を使用したり、スカイプ等の音声チャットを使用する。文字だけの会話には無い親近感を抱く。でも、表情は分らない。
そこで画像を見ながら会話をする。TV電話や、映像チャットといわれるものだ。表情も分り、より一層親近感がわく。しかも、相手は同好の士だ。会話が盛り上がらないわけが無い。あっという間に時間が過ぎる。
それでも飽き足らずに、行ける範囲なら行って直接会う。場の雰囲気が伝わるのは、相手の人となりが伝わってくるのは、直接会うに限る。
そして、直接会って話をして、私は初めて人と接しているのだと安心する。そう、それまでの段階・・・文字での会話、声だけでの会話、そして映像を加えた会話。何れも、機械を経由しての会話だ。人の温かみが伝わってきにくい。
実はネットの世界では、多重人格で居ることが出来る。ある趣味の世界だけの人格。別の趣味の世界だけの人格。Gameをするための人格・・・等々。勿論、リアルで直接会ったとしても趣味の話だけで始終する。でも、相手の生きてきた背景みたいなものを感じ取れるのは、この時だけである。
私は、これからも、ネットの世界で色々な人と会話をしていくと思う。それは、リアルの世界だけでは出会えない、多くの人に出会えるからである。
でも、本当に大切にしていきたいと思う相手とは、これからもリアルで会っていきたい。相手の人を、生きている生身の"人"として大切にしていくために。
(広)
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目を見るという関わり方・目を見ないというかわし方。出稼ぎ労働で日本へ来ていたパキスタン人のともだちから教わった、日本での処世術だそうである。へー、そうだったのかと反対に驚いた。
「日本では不必要に相手の目を見てはいけない。対話をする時以外は相手の目や顔は見ないようにする。用事のない相手の目や顔は見てはいけない」と教わった、と彼は言った。パキスタンで派遣業者の担当員からこんこんと説いて聞かされたそうである。と言うのも、以前にパキスタン人の労働者が東京の繁華街で、日本の暴力団員を珍しく思ったのか、その顔をしげしげと眺めていて、しまいに殴られて半殺しの目に遭った、という事件が実際にあった。その教訓からパキスタンの派遣業者の担当員はこのことを強調して説いた、ようである。
それを聞いて、ひとつ思い出した。初めてインドの空港に着いた夜のこと。夜になっても蒸し暑い不快な空港ロビーは、人間でごった返している。深夜なのにタクシー運転手やホテルの客引きでいっぱいだった。ゲートを出てたくさんの視線にさらされた時、目に驚いた。薄暗いロビーの中で浮かび上がる白目の白さと、こちらを直視する何百もの黒目のコントラストが強烈だった。彼らの目は、正直怖いと思った。
商売熱心で真剣な目つきということもあろうが、それ以前にインドやパキスタンの人たちは遠慮なく人の目を見る。別に用事はなくともじっと人の目を見る。日本風に言えば「穴が開くほど」見つめる。あの見つめ方を東京の繁華街でやったら、しかも相手が暴力団員だったなら、まあ殴られても仕方ないわなあ、とも思う。やはり彼らとは文化が違うのである。
パキスタン人のともだちの言葉から反対に教えられる部分もある。なぜ、私たち日本人は、ある時は相手の目をしっかり見たり、またある時は相手の目を見ないようにして、まわりとつきあっているのだろうか。
しっかり関わりを持たねばならない相手とは、きちんと相手の目を見て話す。反対に関わる必要のない相手や関わるべきではない相手の目は見ないで通り過ぎる。当たり前すぎて自覚できないほど当たり前にやっている使い分けが、実は外国人から見ると当たり前でない独自の文化なのであろう。似たようなことを挙げれば他にもある。イエス・ノーをはっきり言わない日本人、あいまいに笑う日本人、何を考えているのか判らない日本人、などなどである。外国人には理解しづらいので評価されにくいが、これらはいずれも日本人としての良き節操であり、どちらかと言えば美徳としてきたことではなかろうか。
さて、目を見るという関わり方・目を見ないというかわし方、についてである。当たり前の文化であるゆえ、美徳に属するものであるゆえに、反対に自覚しづらい。しかし自分自身の人間関係に重ねて考える時、かわすのではなく、関わる生き方を選びたい。見ずに通り過ぎるのではなく、しっかり相手の目を見てつきあいたい。煩わしい人間関係を敬遠する傾向がますます深まりゆく昨今、目を見るという関わり方の大切さを感じている。時には、目を見た相手から殴られるぐらい、じっと見つめるつきあい方が、必要なのかも知れない。
(本田)
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先日、小学5年の長男が日曜日にサッカーの試合に行った。妻は、朝早くからおにぎりをつくり、息子に持たせて送り出したが、早々と試合に負けて、11時過ぎに弁当も食べずに持って帰ってきた。「お昼はおにぎり食べてね」と言った妻に、息子は「おにぎりなんて食いたくない」と一言。それを聞いた妻は、「じゃあ、なにも食べなくてもいい!」とご立腹であった。妻が怒るのも無理はないが、息子も試合に負けてがっかりして帰ってきて、おにぎりを食べる気にはなれなかったのであろう。結局、妻は文句を言いながらも息子の食事を作り、おにぎりと一緒に食べさせていた。
家庭の食卓の崩壊とか食育ということが、今日よく言われるようになったが、教育関係の雑誌に次のような記事が出ていた。
ある大学教授が、中学1年生の1クラス全員に簡易カメラを渡して、1週間分の夕食の食卓を親には内緒で撮影させるという調査を行った。その結果、食卓にのっていたのは、クッキーのような栄養補助食品、1週間「ピザ・ラーメン・ピザ・ラーメン・ピザ・ラーメン…」、500円玉1個置いてあるだけ、何も写っていない、ポテトチップスと炭酸飲料などなど…。夕飯がない、という中学生が非常に多かったのである。また、教授はそのような生徒たちに「自分の体を大事だと思いますか?」という質問をしたところ、「え?体?別に大事だと思ったことないけど…」という答えが返ってきたそうである。
食べ物が、自分の命を作っているということを感じたことがない中学生が、非常に増えているのである。このような食卓では、自分の命を感じることは困難であろう。また、生き物が私のいのちを支えてくれていることを観じることも難しいであろう。栄養補助食品やポテトチップスでは、「多くのいのちが、あなたの血や肉となり、あなたは生きてるのよ」というような話にはならないのである。
私たちの家は、「風雨から身を守り、家族の安全を保障する」という生活を守る働きと、「子どもを産み育て、生活の中で文化を伝える」という生活を伝える働きがある。現代社会においては、食卓が生活を伝える場としての能力を失いつつあるのであろう。
我家の息子は、母親が怒ろうが気分を害しようが、平気で昼食を食べてからほかごとをし始めた。やつは、母から見捨てられない自信があるのだろう。そうでなければ、あのような態度は取れない。私は、今朝妻が子どものために作ったおにぎりの残りを残さず食べた。私は、妻に見捨てられない自信がないのである。それが、私と妻の夫婦のかかわりの一部分である。
(平松)
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