
「いのちを大切に。自分のいのちは自分で守らなければ...」。というフレーズをよく耳にします。確かにそのとおりです。
しかし、よくよく考えてみますと、自分のいのち・私のいのちと思っているそのいのちは、果たして私のものでしょうか。
もし、私のいのちが私の(所有の)ものであるならば、私が自由にできるはずであります。ところが、…。
私たちは自分の誕生日を知っています。
当然といえば当然ですが、自分で体験して知ったわけではありません。親とか近親者から教えられて知っているのです。
もちろん、自分でその日を選んだ覚えもありません。いのちの出発点である誕生日からして、自分の思うように、私が自由に設定することはできないのです。
一方、いのちを終えるときも同様であります。
先日、あるご主人が癌を患って58歳で亡くなられました。その奥さまいわく、「あと一週間生きておってくれたら初孫の顔が見られたのに、残念です」。
おそらく延命治療も尽くされたことでしょう。が、58年の中のほんの一週間という短い時間も思うようにできないのが現実です。
私のいのちといいながら、私の思いどおりにならない「いのち」はいったい誰のものでしょう。
私たちは、食前と食後に「いただきます」「ごちそうさま」といいます。日本の伝統的なよき行儀作法だと思います。
ただ、この行儀作法、料理人や食事を提供した主へのお礼の言葉と考えられる方も多いかと思いますが…。
もちろんそんな意味もありましょう。でも、私はそこには、もっと深い本来的な意味があると思います。
人間存在は根本的な矛盾を抱えています。人は生きていくために、他の生き物のいのちを奪わなければなりません。
人間は、牛のいのち、魚や豚のいのちを奪い、蛋白源と称してその肉を食して生きています。
大根や人参、お米だっていのちがあります。人は自分のいのちを維持するために、そうしたいのちも奪っています。
他のいのちを奪わざるを得ない我が身に気づいたとき、そこに「痛み」の心がめばえ、「いただきます」と合掌するのです。
と同時に、大自然の恵みに対する感謝の念が起こり、「ごちそうさま」の言葉が出てくるのでしょう。
そうした言葉の真心が改めて我が身にいただけたとき、そこには「一つのいのちを共に生きる」という新しい世界観が開かれてきます。
自分のものと思っているこのいのち、実は大自然の大きないのちの、ほんの一部分をお預かりして生かさせていただいているのです。
大自然の中の、人はもちろん生きとし生けるもの全ての存在を尊重し、お預かりしたいのちを精一杯燃やし尽くしたいものです。
共なるいのちを生き、いのちの尊厳に目覚めて欲しい、と私たちに呼びかけてくださっている「はたらき」があります。
それは大いなるいのち、永遠のいのち「無量寿」のはたらきであります。