いのちきらきら

いのちの尊厳

・いのちの差別化

 このところ殺人事件が頻発しています。おとな同士もさることながら、幼いいのちが奪われる事件も多発。殺す側も殺される側も低年齢化しています。

 しかも、その“理由”も理解しがたい場合が多いようです。「相手は誰でもよかった」とか、「自分で自分が分からなくなって殺した」、あるいは「世の中のやつ、全部敵や」などとうそぶく犯人・容疑者。

 こうした“理由なき”理由付けは1990年代から顕著になってきたといわれますが、その根元はどこにあるのでしょう。日本の戦後教育にあるとも、家庭の教育力の低下にあるともいわれています。

 経済発展をめざす日本の戦後教育は、すぐれた人材が必要だということで、「物質的に豊かな生活をすることが幸せなんだ」という価値観を国民に植え付け、「いのちより金が大切」という風潮を育てたともいわれますが、否めない事実でしょう。

 教育論議はさておき、いずれのケースも、殺人犯は相手のいのちは自分のいのちより価値が低いと見ていることは確かです。いのちを差別しているのです。で なければ、無抵抗の、いや無抵抗どころか、逃げまどう子どもを追っかけて刺し殺す、などという行為はできっこありません。

・いのちの私物化

 その一方、合法的にいのちを差別する行為が堂々と行われています。それは脳死による臓器移植。生体移植ならともかく、脳死移植についてはいかがなものかと、どうしても賛成できません。

 移植手術を受けるために外国へ渡った子どもが「待っている間に容態が悪化して亡くなった」というニュースが報道されたことがありました。何を待っていたのでしょうか。もちろん、臓器の提供を待っていたのでしょう。が、端的にいえば誰かが「死ぬ」のを待っていたのです。

 そして、その生体?死体?から必要な臓器を摘出して移植する。何とも残酷な話であるうえ、差別的な行為と感じざるを得ません。どうせ死ぬ身の私の肉体で 助かるいのちがあれば喜んで…。いかにも麗しい善意、ヒューマニズムではありますが、これはいのちの私物化・差別化ではないでしょうか。臓器を提供する側 も、受ける側も。

 さらにひどいいのちの私物化・差別化の例もあります。それは「臓器売買」。発展途上国へ経済力豊かな国の人間が出かけていって、“養殖臓器”を買って移植していのちを長らえるという話。そこには、金持ちのいのちは尊くて貧乏人のいのちは卑しい、という図式があります。

・いのちの平等性

 いのちは本来平等なのです。なぜか。「いのちは誰のものか」の原点に立ち返ればおのずと明らかなこと。自分のものだと思っているこの私のいのち、実は大自然の大きないのちからのいただきものなのです。もっといえば、仏さまからいただいたいのち。

 ところで、数ある仏さまの中で、ただお一人この世でいのちの営みをされた仏さまがいらっしゃいます。それはお釈迦さまです。仏伝によれば、お釈迦さまはお生まれになってすぐ七歩歩み、天と地を指さして「天上天下唯我独尊」と大きな声で叫ばれたとか。

「唯我独尊」は「ただ、我独りにして尊し」と読みます。お釈迦さまは天才だから、生まれながらにして私独りが偉いのだ、とおっしゃったと解釈されがちです が、それは誤解。お釈迦さまに限らず、生を受けた私たち一人ひとりが、独立した人間として尊いいのちをたまわっているのだという意味です。

 たまわったいのちは、もちろん固有性はありますが、軽重については平等であります。あたかも太陽の光が地球上の誰の上にも平等に注がれるように。そのいただきもののいのちを私物化すれば、そこに差別が発生するのは理の当然でありましょう。

・いのちの尊厳

 最近「いのちの尊厳」というフレーズをよく耳にします。人のいのちは尊くしておかしてはならない、ということ。最近「安楽死」をもって人間のいのちの尊 厳性を意義づけようとする風潮があるようです。反面、いのちの尊厳の名のもとに、チューブをつないで延命するという行為も日常的に行われています。

 いずれの場合も自然の流れに逆らった、恣意による尊厳性といえないでしょうか。仏さまの教えによれば、「いのちの尊厳」は、たまわったいのちの平等性のうえに立ってはじめていえるのだと思います。私物化・差別化された時点で、いのちの尊厳性は傷つけられてしまいます。

 金で臓器を買って移植して、平等性と固有性を踏みにじって、私物化したいのちを長らえたとしても、その人のいのちの尊厳性が保たれたとは思えません。一 人ひとりにたまわった、かけがえのない、代わることのできない尊いいのちを精一杯生かさせていただきたいものです。「唯我独尊」なのです。合掌

文責:本田眞哉