毎月更新してきた今月のことばは、2005年9月をもって終了させていただきました。
最近よくこの言葉を耳にする。選挙の際に政党などが発表する「具体的な公約」の事のようである、どこからともなく現れ瞬く間に世間を席巻した言葉であるが、それにしても一体何語なのやらよくわからない言葉である。
近頃は猫も杓子もカタカナ語である、フリーター、ニート、ストーカー、ドメスティック・バイオレンス、ニッチにソリューション、きりがない。
カタカナ語は新しい概念を表すには便利だし、その時々の必要に迫られて生まれてきた言葉だと思う。しかしその一方、物事の本質を覆い隠してしまうような、言葉の持つ概念を全て洗い流してしまうような何か不気味な物を感じてしまう。
カタカナ語になった瞬間、有機的に使われていた言葉が、無味無臭のまるでプラスチック製品のように変わってしまう気がする。
我々の生活が日々新しい言葉に言い換えられていくなか、何か釈然としないものを感じながらも、まるで流行に飛びつくようにカタカナ語に飛びついてしまうのは何故だろう?
自分の住む世界、生身の人間が住む世界の事実から眼をそむけ続ける自分の姿がそこにあるのではないか。
今後、殺人や戦争までも新しいカタカナ語に言い換えられないとも限らない。
ゲームや映画の中の世界ではなく、我々は逃れようのない現実の世界に生きていることを忘れないようにしたい。
2005年9月
先頃三河の先輩から「おとましい」という方言を教えてもらった。これは「疎ましい」が訛った言葉で、仏教徒として畏れ多くもったいないことだ、という意味だそうである。「お内仏に足を投げ出して座るとはおとましい」「お元気に念仏申しておられたあの人が急死なさったとはおとましい」などというのだそうである。うーん、ちょっと理解しづらいですね。
最近「もったいない」は世界標準語になった。ご存じワンガリ・マータイさんの発言によってこの言葉は一躍注目を浴びた。ケニアの女性大臣で昨年度ノーベル平和賞を受賞した彼女は、日本語の「もったいない」に非常に感動し、「日本にはこんな素晴らしい言葉がある、この言葉を世界に広めていきたい」と発言された。確かに「もったいない」という言葉の中には、ものを大事にする日本の文化がある。
しかし「おとましい」はどうやらそれ以上の言葉であるらしい。ボクは尾張の人間である故こ の言葉の深みが解らない。解らないがためにいっそう知りたい。それで「おとましい」について
、ああでもない/こうでもない、と考えあぐねている。また残念な傾向ながら、近頃あまり方言 を使わなくなった。若い人の口から方言を聞くことも少ない。やはり東京中枢思考のテレビ文化
の影響であろうか。方言には、それに慣れ親しんで、聞き慣れ使い慣れた人でなければ理解し得 ない深く豊かな味わいがある。方言は文化である。特にこの「おとましい」は三河門徒の文化で
あるらしい、といよいよ深く考え込んでいる。
どうですか、みなさんも一緒に考えてみませんか。三河門徒が仏教徒の言葉として大切にしてきたこの言葉「おとましい」、これは仏教徒として宝物のような言葉であるかも知れません。
2005年8月
人はどうして嘘をつくのだろう。先日も人と話をしていて嘘をついた。決して人を傷つけるような嘘ではないが、嘘をついた。後から「何であんなことを言ったのだろう」とひどく落ち込む。
「ひとつ嘘をつくと、たくさんの嘘をつかなくてはいけなくなるの。そして、最後は自分に嘘をついて、自分のことが嫌いな人間になってしまうの。だから、人間は嘘をつかないように努力しなくてはいけないの」子どもの頃、嘘をついてしかられたとき、母が言っていた言葉である。
「ひとつの嘘は、多くの嘘を生む」みんな一度は経験したことがあるだろう。母の教えを守れず、ひとつの嘘のおかげで、手痛い目に何度もあってきた。その度に、後悔の念にさいなまれて、もう嘘はつくまいと誓う。しかし、嘘をつかずにはいられない不誠実な私がいるのである。
嘘は、自分がかわいくて仕方なく、責任転嫁と自己正当化している私に気づかせてくれる。私は嘘をつきながらも、誠実に生きたい。だから、『正直は最善の策』である。
2005年7月
小学生時代に読んだ四文字熟語の本で見つけた言葉である。
私達は、自分が何事にも一番だ、優れている、こんなに凄い、こんなに偉いと長所 ばかりを前面に押し出して生きている。しかし、本当にそうなのだろうか。やはり、
劣っているところ、短所も見えてくる。そして、短所が発見された時、卑下し、落ち込み、投げやりになってしまうこともある。
けど、それで良いのではないだろうか。別に、ふさぎこむ必要はないのである。それが、私なのだから。他の何者にも代え難い私自身なのだから。
人は誰もが、長所もあれば短所もある。そこに個性があり、ひとりひとりが尊ばれ 、あなた自身が輝くのではないだろうか。
2005年6月
ある家で小学5年生と3年生の兄弟とおしゃべりをしていた。
「お兄ちゃんは学校で何が得意?」「うーん、勉強は嫌いだけど放課が大好き、みんなでドッチボールをやるんだ」「ほう、元気いいね」
弟の方に「ぼくは何が得意かなあ」「算数」「そうか、えらいなあ」
それを聞いていたお母さんが「お兄ちゃんも勉強の方が得意になってくれればいいのにね」
「だけど二人ともそれでいいんじゃない、素直で元気があって勉強が好きで」と私。
元小学校の先生が「『赤色の反対は何色か』という問題があり、生徒は口々に『明るい赤の反対で暗い黒色』『黄色』『青色』『赤色でない色』などと答えていた。でもどれも×。正解は『白色』。しかし『黒色』『黄色』などと答えた子、どれも○だと思う。今の入試にしても学校での試験にしても『○か×か答えは一つ』の問題が多い、でもこの『答えは一つ』に大きな問題がある。自分の感じたこと、自由でユニークな発想を押さえつけ、幅のある人間を育てない。人と違ったことをすれば『あの人は変わった人だ』と言う。そこにいじめや差別の問題があるのではないか。もっと余裕のある考えを持った人が必要だ」と話していた。
私は文字に劣等感を持っていた。右下がりの、丸っこい、バランスの悪いへたくそな字。でもそんな文字を見てある人が「個性的でユニークな字」と表現してくれた。
「そう、それでいいんだよな」
2005年5月
これはニューヨーク州立大学病院の壁に落書きされて、そのまま残されていた詩です。
私も人生が思い通りに行かなかったことのほうが多かった。
しかし、もがき苦しみ悩んだ分だけ成長しているようだ。
自分の行動に少し反省ができるようになったから・・・
この不完全な私は、自分以外のすべてのものに支えられて生かされている。
ただ素直に頭を垂れる自分になりたいものだ。
2005年4月
天寿をまっとうした、という言い方があります。じゅうぶん長生きして死ぬ、という意味で、死者への褒め言葉として使われることが多いようです。その反対が、若死とか夭折(ようせつ)と言われます。そしてこれは、良くないこと、そうあってほしくないこと、という言外の意味がこめられています。
あるアンケートで、「あなたにとっていちばん大切なものは何ですか」という問いに対し、日本人の回答で最も多かったのは「健康」だそうです。もちろん健
康で長生きするにこしたことはありません。それはそれで大切なことですが、もっと大切なことは、「長生きをして何をするのか? 何のために長生きをする
のか?」ではないでしょうか。
「ただ年をとっただけの愚かな老いぼれ」(『ダンマ・パダ』第260偈)にはなりたくないものです。
2005年3月
これは、昔からあるフィルムを使用したカメラ(最近は銀塩カメラという言い方が増えてきました)とデジタルカメラについての話です。
簡単に撮れて、その場で確認でき、さらに失敗作はその場で消してなかった事にできるデジタル写真。片や、その場ではどう写っているか確認もできず、失敗作があってもフィルムの中に何時までも生き続けるフィルム写真。
最近、長寿になってきた私たちが目にする死はその大半がゲームの世界。死んだらその直前から再スタートするゲーム。失敗したらリセットできるゲーム。あたかも、デジタル写真の様にやり直しができる生。
でも、今の私たちは生身の人間・・・フィルム写真の様に失敗しても消すこともできずに残り続ける人生。失敗も成功も織り交ぜて初めて人間味ゆたかな人生になると思うのですが。
2005年2月
私はまだまだ若い、老いてボケないように気をつけよう。
私はまだまだ元気だ、病気に罹らないように気をつけよう。
私はまだまだ丈夫だ、死ぬわけがない。
老・病・死を畏れてお寺や神社に行って願を掛けたり、お札をもらったり、一生懸命です。それでいいのでしょうか。本当に逃げられるのでしょうか?いつまでも生き続けられるのでしょうか?
そんな私たちに、「老いるべき若さ」、「病むべき健やかさ」、「死すべき生」であると、仏法は「いまの“いのち”を問い直してみて下さい」と呼びかけています。
掛け替えのない、たった一度の人生です。大事に一生懸命、生きていきたいものです。
2005年1月
今の私達は、より便利で快適な生活を追求しています。家庭にいながら世界中の情報が次から次へと入ってきます。住まいの環境は暑さ寒さを調節するためのエアコンや冷暖房器具、移動に便利な自動車、コミュニケーションに便利な携帯電話など、あらゆる物に囲まれて生活しています。
今年は台風、水害、竜巻、地震などの自然災害により被害を受けた方が多くおられます。命と共に快適・便利であった衣・食・住を一瞬にして奪ってしまうような災害の発生しました。頼りとするライフラインの復旧もままならぬ避難所の生活、その身になってみないとわからないことばかり。
「他所のことで良かったな。私でなくて良かったな」被害の状況を次から次へと画面の向こうの話としている私。いつ、どのような状況になっても本当に自分のこととして引き受けていけるかどうか、問われています。
私自身の姿が仏智に照らされて本当に知らされる時、その障りの大きさと同じ大きさの救いの働きを感ずることが出来ると教えられるのです。
2004年12月
煩悩の固まりであるような私たち、火のついた家のようにはかない世界では、
全てのことは、みな嘘偽りばかりで、なにひとつとして真実はないのに、
ただ念仏だけが真実なのである。
三井住友と三菱東京を天秤にかけたような合併プロジェクトですったもんだのUFJ銀行。金融庁の検査を妨害したとして、東京地検特捜部が捜査に乗り出した。書類の改ざんも発覚したとか。厳正でなければならない銀行に嘘偽りがあるとは…。
国会議員のあの人もこの人も未加入・未納だった、あの国民年金問題。02〜03年度の2年間に1か月以上納めなかった人が、なんと加入者の45%に当たる1,000万人。会計検査院の調べで分かった。正直者が何とやら…。
元首相の派閥への日歯連からの1億円ヤミ献金事件。1億円ものお金をもらって、忘れたとか関与していないとかのコメント。私たちには理解できない。その元首相、国会の証人喚問には応じないとか。どこかにウソがあるのでは…。
今度は防衛庁。PKOを派遣した国に対して国連から払われる償還金の問題。防衛庁は国連から受領した償還金20億円を国庫に納入していなかった。会計検査院の調べで分かったという。処理に時間がかかったためとか。このIT時代に不可解な話。
以上の?そらごとたわごと症候群?は10月11日の新聞から得た情報。その他にもイラク大量破壊兵器保有のウソ、偽造住基カードの問題等々嘘偽りの話題がありましたが省略。わずか1日の紙面でこれだけ。「まこと」を貫くことの重要性をひしひしと感じる秋の1日でした。
2004年11月
今のイラクの混迷は、ブッシュ大統領の怒りに根源があります。自国は善で敵対する相手は悪として武力による弾圧です。そういうアメリカへ被爆国として大きな犠牲を経験して、平和憲法を持った日本が追随するということは暗闇につき落とされた思いです。
上記に続く言葉に「そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。」と続きます。ブッシュ大統領のアメリカ一国による独善的判断が今回の悲劇を生みました。現在のアメリカの強引な政策では、紛争のない世界を望むことはできません。
親鸞聖人は自力によっておちいる暗闇をまっすぐに見詰め、真に開かれた阿弥陀の真実を顕らかにしてくださいました。ともに救われる道を開いてくださいました。親鸞聖人の教えにたてば、世界に平和が訪れるのではないでしょうか。
2004年10月
善信/親鸞聖人のこと
正定聚/往生が正しく定まり必ずさとりをひらくことができるともがら
最近、「家族葬儀予約」、あるいは、「葬儀生前予約承ります」の広告をよく目にする。
ある門徒さんから「住職、私が死んだら、お寺で葬式あげてくださいな。墓も建てたし、法名を授かったし、葬儀社に事前予約したから。これで、息子夫婦に迷惑かけんで済むから」と。
このようなお願いをよく耳にする。死は迷惑をかけることなのだろうか?
そこで私はそのような問いかけに「葬儀は死んで行くものの仕事ではないんじゃないですか、葬儀は生き残っておるものの仕事じゃないですか。あなたがたとえお寺で葬儀がしたい、建てたお墓に埋葬してもらいたいと望んでも、喪主の息子さんたちが、本当に実行してくれるとは限りませんよ。死んでしまえば、あなたの思い通りできないのだから。それより、今真剣に問われていることに、気付くことが大切じゃないですか。あなたの生きざまが、臨終を迎えた時に息子さんがどういう葬儀をしてあげたいか、亡き人が決めた事だからじゃなく、亡き人を思い、心を込めた最後の報謝の儀式が葬儀ではないのでしょうか。」と。
親鸞聖人 「善信が身には、臨終の善悪をばもうさず」の言葉が、今の世界に響き渡って欲しい。生死を厳粛に受け止め、死際の善し悪しへの執着から解放され、如何なる死を迎えたとしても、あるがままに死を受容していく。
迷惑をかけるという世界から、よくぞ迷惑かけてくれたと、生き残っておるものたちが受けとめられる世界へ。
2004年9月
口に出してものを言えば、お互いに心の内も聞こえてきて、また、相手から直され、気付かされることもある。ただ、ものを言いなさい。
近年、パソコンや携帯電話の普及によって、お互いに顔を見合わせなくても文字で会話が出来るようになった。メールやチャットという機能である。大変に便利である。お互いに時間を合わせて"会う"ということをしなくても良いのである。
しかし、メールやチャットでの会話はダメというわけではないが、なにかそっけない。お互いの感情を読みとることは出来るだろうか。
例えば、「バカヤロー」という言葉でも、その人は顔を見て会話をすれば、冗談なのか、怒っているのかわかる。けれど、メールやチャットだとやり取りの中で察することは出来ても、正確に伝わるとは限らない。お互いの思い違いということも起こるだろう。
やはり、"相手の顔を見て会話をする"ことによって、時には言い争いになることもあるかもしれないが、お互いに理解し合い、教え・教えられて、ひとりの人として尊重しあえるのではないだろうか。
2004年8月
同朋大学教授 尾畑 文正
真宗本廟教化リーフレット「いま浄土とは」より
またまた悲惨なニュースが流れた。冷静に物事を判断する能力がなくなってしまったのだろうか、何かが欠けてしまっているのだろうか。
いつかラジオで、ある予備校の塾長が話していた。
「このごろは二文字後部欠落症の風潮である。何のことかというと、たとえば、
愛情・・・愛はあっても情がない。
家庭・・・家はあっても庭がない、庭といっても庭園のことではなく、家族が集まって話し合える場所、機会がない。
教育・・・教えることはあっても育まない、育てようとしない。
今そんな二文字の後の一文字が欠けている時代だ」と。
ほかにはどうだろう。たとえば人間・・・人は大勢いても人と人との関わりがない。「じんかん」というように、人と人とが支え合う間柄がない。自分の都合だけで動いている。自分さえよければ人はどうなってもかまわない。大事なものが一つ欠けている。
早急な欠落回復の治療が必要だ。
2004年7月
鶴田義光
今年はあの「尾崎 豊」の13回忌です。 本の出版やアルバム、DVDなどがたくさん出され、また良く売れています。 尾崎豊は、当時の若者達のカリスマ的存在で、亡くなって初めて知った大人たちも多かったんではないでしょうか。
彼ほどの人でも、大人になっていく自分に対し若者の代弁者になれなくなってきたことへの悩みはとてつもなく大きかったと思います。
「人間とは努力する限り迷うものだ」とゲーテは言いましたが、人間は自分に誠実に生きようとする限り苦悩するものだ、と言えるのではないでしょうか。自分をごまかそうとしなければ、絶えず悩んでしまうものです。
悩んでも悩んでも、答えは見つからない。 ただ、ごまかさなく悩みぬけばかすかな光が見えてくる。 私だけの「仏」という光が・・・
他人がどうとかではなく、私だけの為に「仏」が現れます。 「仏」は私に寄り添ってくれるのです。 悩むことは苦しいけれど、素晴らしいことなんです。
安心してください。 もがき苦しむそのままで、「仏」は抱きしめてくださいます。
2004年6月
憎しみと恐怖は、顔の見えない相手に対する不信感によるもので、表裏一体の関係といえます。なおかつ、互いに連鎖反応の関係にもあります。イラク駐留軍やイスラエルが敵を討とうとすることによって、かえってテロ(Terror=恐怖)におびえなくてはならない、という現実をみると、このことがよく分かります。
その連鎖を断ち切るために、釈尊は次のように説かれます。「彼らも私と同じであり、私も彼らと同じである。わが身にひきくらべて殺してはならない、殺させてはならない。」(「スッタニパータ」第705偈) 「同じ」、とは相手をモノではなくヒトとして見ることです。いわゆる「テロリスト」も人間として同じである、とする視点を欠いたところに「正義の戦争」が成り立つのでしょう。
なぜ殺してはならないのか? 相手を殺すなら、自分も殺されるからです。「殺される前に殺せ」を正しいと思う人は、相手もそのように考えていることを知らなければなりません。
2004年5月
この文(ふみ)が書かれたのは今から約520年前の1477年(文明9年)のことです。この当時の平均寿命は50〜60歳だったようです。現在は男女の差はあれども80歳前後と長生きになってきています。
今の時代、寿命が延びてどうなったでしょう?胸を張って生きていますか?
確かに、食糧事情も良くなり、生活水準も上がってるでしょう。でも、それだけで幸せといえるのでしょうか?蓮如上人の時代よりも、私たちは時間に追われて生きています。いつのまにか息切れして、窒息しているように感じます。
忙中閑ありです。一度立ち止まって、自分の生き様、見つめなおしてみましょう。たかだか、50年から100年のうちのことなのですから。
2004年4月
「うろうろして道に迷う」といいます。
「有漏(うろ)」とは仏教用語でわれわれ凡夫のことを指します。
それは、漏れる事が有るということです。例えば、聞き漏らすとか見逃すというように、自分にとって関心のないことは無意識のうちに漏らしているのです。肝心なことを漏らしてしまうから迷うのです。
しかし、仏さまは漏らしてはダメだとは言われません。漏らしていることに気がつきなさい、愚かな自分に気がつきなさい。
そんな愚かな凡夫を一人として漏らすことなく、すくい取ると誓われているのです。それを「無漏(むろ)」といいます。
仏さまは、混迷の世を生きている私たちに向かって、自分さえよければという(有漏)に生きるのではなく、すべてのものが平等に救われる(無漏)にすべてをおまかせして生きてゆきなさい、と呼びかけてくれているのです。
2004年3月
先日、テレビにて山口の養鶏場で発生した「鳥インフルエンザ」による影響を防ぐための対応が放映されていました。そこでは、感染を防止するため、全ての鶏を窒息死させ、地中に埋めるという処分をする様子でした。私達の食物を生み出す物として飼われている鶏も一度不都合な病気が発生すれば、予防のためとして処分される、そういう形を取らざるを得ない人間のあり方を見せられた思いがいたしました。
ひとたび、不都合ということになれば、人間をも人間としてみることができなくなるあり方があったわけです。かつて、敵対する人々を「鬼」「畜生」あるいは「実験用丸太」として、同じいのちを生きるものと見ない時代がありました。それは、いのちを「もの」としてしか見えないあり方に、自己の勝手都合で陥る可能性を示しているのです。「父母兄弟」というかたちで、ありとあらゆる生き物のいのちを、自分につながるいのちとしてみていくあり方を教えられているのです。
2004年2月
浄土の清らかな風に宝樹がそよぐとき
五つの音色の音楽が聞こえてくる
宮の音も商の音も微妙に相和して、自然の音楽となっている
浄土の主である阿弥陀仏を礼拝しよう
「いつつの音声」というのは、和楽の五音階「宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)」のことです。その中の「宮」の音と「商」の音は、専門家によれば本来和する音ではないとのこと。現代風にいえばハモらない音なのです。それが浄土では「和して」美しいハーモニーを醸し出しているというのです。
このところ、隣人のつきあいから国際情勢に至るまで、不協和音がいっぱいでとても耳障りです。我利優先の自己中心的な考えで他人の心を傷つけたり、「国益のため」とて、無理なかたちで“国際貢献”に臨んだり…。
力で抑えつけるところには、それがことばにせよ物にせよ、必ずリアクションが起こり不協和音が発生します。人となり、価値観、文化、宗教、民族による差異(ちがい)をお互いに認めあい尊重しあった上での、響きあえる本当の「和」を実現したいものです。
2004年1月
クリスマスのパーティ、神社への初詣。年末年始にかけてこれから毎年の諸行事が繰り返されます。我々日本人は、結婚式は教会で、七五三は神社で、葬式は寺院でとその時の都合に合わせて宗教を利用しています。
そのような日本人の姿を見て「※ホウロクで炒られている豆のようだ」とスペインに住む日本人画家がおっしゃいましたが、親鸞聖人在世の時にも地に足の着かない生活をしていました。
自分さえ良ければという自己中心のご都合主義がますます強まる傾向にあります。周りの人に支えられて生かされているのに、その周りの人も見られない。そしていのちの重さ、尊さがあまりにも感じられない人が増えています。改めて自分を振り返るゆとりがほしいと思います。
※ホウロク−素焼きの平たい土鍋
2003年12月
同朋大学教授 田代 俊孝
東本願寺出版部『真宗と「いのちの教育」』より
この短歌は、浜松市に在住し46歳になったばかりでお亡くなりになった女性の方が病床の中書き綴った短歌です。
私達はよく、「最近楽しい事ないね」とか、「何か刺激が欲しい」と口にします。しかし、病いになったり、老いが進み身体が自由にならなくなって、生活の歯車が合わなくなるような体験をして初めて気がつくのでしょう。
平凡、それがどんなに素晴らしい事か。悲しみや苦しみが大きければ大きい程、いま生かされていることや私を支え育んでくださっている無限無量のおかげさまに心の底から気づくのでしょう。
そのとき、映画のラストシーンのようなドラマチックな最後を望むことも要らないのです。あるがままでいいのです。いただいた命の尊さに目覚め、いただいた命に感謝し、いただいた命を最後まで精一杯つとめ果たさせていただくだけでいいのです。
2003年11月
私たちは自分本位に物事を考えてしまいます。時には自分のみならず他人をも傷つけてしまいます。
しかし、一度立ち止まって考えてみてください。誰も排除されるべき人なんていないのではないでしょうか。みな同じいのちを生きる仲間なのではないでしょうか。
みな「仏さま」から平等に救おうという願いをかけられて生きているのです。
2003年10月
大谷中高校校長 真城 義麿 (ましろ よしまろ)
四季社『続真宗オリジナル伝道句大事典』より
9月15日は敬老の日です。私自身?老いる?ことなどまだまだ、と思っていた事がまぎれもなく刻々と与えられています。
以前ある家で、生後六ヶ月ぐらいの子供を囲んでおしゃべりをしていました。その子は我々の話にあわせるように「キャッキャッ」と話の中に入り込んできました。やがて持っていたおもちゃを畳の上に落としました。やっと座れるようになったばかりですが、精一杯手を伸ばし、そのおもちゃを取ろうとしています。そうだ、この子も一生懸命しゃべる準備、座る準備、這う準備、立つ準備、歩く準備、そして親の顔を見ながら親に負けないやさしい子になろうと確実に準備をしているのだな。
人は引き返すことができない日々を生きています。だから今を大切に生きなくてはなりません。顧みて私は「生まれた喜びを、そして老いていく尊さ、?まだ大丈夫?ではなく?もはや、一つずつ、一つずつ?老いへの準備をしなくては」とその子に教えられた気がします。
2003年9月
いま私たちは、恐ろしいほどの情報化社会に生きています。そのために、人生の大切なことまで占いや迷信など、何かに頼らなければ不安でしょうがない人たちが多くなってきました。自分自身を見失い、精神的に追い詰められていく姿には悲しくなります。
さて、真宗門徒は自分のすべてを「阿弥陀如来」一仏にお任せすることから、世間の「常識」である迷信や習俗に無頓着であったので「門徒もの知らず」と言われました。
日柄の良し悪しや方角・家相・姓名判断等によるごまかしの人生ではなく、真摯に「生きる」ということを考えれば、真宗門徒にとってこのように言われることは、むしろ誇りと思えるのではないでしょうか?
2004年8月
自業自得,ということばがあります。自分のなした行いの結果は自分で責任をとらなくてはなりません。私たちは,ふだんは享楽の生活におぼれながら,いつも他人をあてにしたり,都合の悪いことを他人のせいにしてはいないでしょうか。いつも自分に都合よく考える甘さがありますから,いざ,死や病や老いをむかえた時に,あせりや不安にさいなまされます。この経典の言葉は,私たちに,「人間はひとりで死んでいく」「誰も苦しみを代わって受けることはできない」という厳然たる事実を示しつつ,「苦悩を直視せよ」と語りかけているようです。思うに,苦悩の解決があるとすれば,苦悩を直視しそれを受け止めることによってしかありえないのではないでしょうか。
2003年7月