帰敬式は「おかみそり」とも呼ばれ、真宗門徒としての自覚に立って、仏弟子としての歩みを始める誓いの儀式です。
それは我が身のあり方を真実のみ教えに問い尋ねてゆく人生の始まりです。
名古屋別院では、大谷暢顯門首により執り行われます。
受式されますと、仏弟子としての名前である「法名」が授与されます。

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- 法名は、何が起きるか分からない私の人生を、南無阿弥陀仏の教えにたずねながら生きていこうと覚悟を持って名告る名前です。毎日仏教を実感するには、生きているときにこそ名告りたいですね。親鸞聖人は釈親鸞と名告り、九十年の生涯、念仏を生きる力として歩まれたのです。

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- 自分に都合のいいことや、楽しいことは起こらないかもしれません。しかし、阿弥陀仏は、わたしたち一人ひとりが「生まれた意義と生きる喜び」を見いだしていけるよう、常に願いをかけてくださっています。ところが世間のことに追われてわたしたちはそれに気がつくことができません。法名を名告るとは、そのようなわたしたちが、まさに阿弥陀仏の願いに気づかされていく、そのきっかけをいただくことなのです。

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- たとえば、自分が病気になったり、家族が突然事故にあったり、やがては自分の命を縮めるということになっては困るということでしょうか。しかし、病気にならない命、死なない命はなく、いかなる人も死をまぬがれることはできません。むしろ、思い通りにいかないさまざまな出来事(生・老・病・死)を私の命の厳粛な事実として引き受けるすべが見つからないことこそ、本当に困ったことというべきではないでしょうか。
仏法をたのみとしてその大事を見いだしていく。法名を受けるとは、その歩みを始める覚悟というべきものでありましょう。

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- 帰敬式を受け、法名を名告ることをきっかけにして、仏法聴聞の生活を一歩一歩始めてくださればと思います。
・仏(仏陀=お釈迦様) ・法(お釈迦様の教え) ・僧(教えを聞くなかま) の三宝に帰依し、ご本尊を中心とした生活を送りましょう。具体的には、毎日のお勤め(正信偈、念仏、和讃、御文)を生活の基本に据えて、お寺の同朋会、法要行事など様々なご縁の中で親鸞聖人の明らかにされた南無阿弥陀仏の声を尋ねてくださればと思います。

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法名は「釈※」の字を冠して「釈※(尼)○○」といい、仏弟子の名を表しています。それは、たくさんの戒めを守って生きていくことを名に表している戒名とは大きく異なります。
どちらが優れているかという優劣の問題ではなく、私自身の生き方にどのように向き合うかに鍵があります。人間の弱さや愚かさを克服していこうとする賢者の道(戒名)と、どこまでも愚かな私のあり様に帰っていく愚か者の道(法名)と、どちらが私自身の真実を明らかにしていく道なのか。是非ともお考えいただければと思います。知識としてだけで理解しても、その二つの違いはなかなかうなずくことが難しいものです。聞法を通してこその確かめが大切かと思います。
※釈=釋

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- 「生きる」ということは、悲喜こもごも、山あり谷ありの毎日ですね。生きることがこんなにも苦しいものかと泣きくれたことや、またささやかなことに生きていることの喜びを感じたりと、とても平坦な人生などありえないことでしょう。しかし、そのような人生を本当に大切なかけがえのない私の人生であると、私を励ましてくださるのも、実は「釈」の一字を冠した法名の持っている大きな意義ではないかと思います。
法名が私のいのちの励ましともなっている、そのことに法名とともに生きてこられた先達のご苦労の声が聞こえてくるようです。どうかあなたもその法名を名告り、つぎの大切ないのちのつながりを生み出していく一人として、本当の意味で法名とともに生きる念仏者の歩みを始めてください。
聞法の場に足を向けましょう。必ず手がかりになることと思います。

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- 本山選定の法名には自分の名前の一字を入れることはできませんが、住職選定の法名の場合には一字入れることができます。俗名の一字を入れることの意味や、法名の文字に込められた願いを、ご一緒に考えてみましょう。
法名の一字一字が、すばらしい聞法のご縁にもなります。




